更新日:2007年12月5日

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雑学コラムpart3


隼人舞を伝承する近畿地方の隼人の末裔たち

奈良時代、歌舞芸能と御所警護の役を受け持つようになった隼人たちが、都の近くに移住したといわれています。京都府綴喜(つづき)郡田辺町の大住地区は、大隅国から移住した隼人が開いた村だといわれます。(同様に、阿多隼人が移住した薪、日向隼人が移住した松井という地区もある)。正倉院文書に、隼人の大住地区への移住をうかがわせる記述があるそうです。


隼人舞は、日本書記の海幸彦山幸彦物語をもとにしているといわれます。当初は県内各地から集まった舞人が鹿児島市の催馬楽(せばる)山で合同練習して上京していましたが、後には移住した大住隼人族により伝承され、毎年の大掌祭の際に奉納されました。


隼人舞はやがて猿楽となり、さらに能楽へと発展したということです。年月の経過とともに大住地区でも伝承が途絶えていましたが、昭和46年、古代史研究家や地元有志の尽力によ り隼人舞が復活されました。復活した隼人舞は町の無形文化財にも指定され、地元住民により大切に保存継承されています。

桜島を囲む鹿児島トライアングル

鹿児島には、鹿児島神宮・神社と呼ばれるお宮が3か所にあります。
大隅一之宮で知られる隼人町の鹿児島神宮。垂水市下宮町の鹿児島神社。そして鹿児島市草牟田町の鹿児島神社。この3か所を結ぶと、桜島を囲む二等辺三角形が完成します。
さて、桜島の古名は「鹿児島」であったろうといわれています。と言うことは鹿児島神宮の御神体は、桜島そのものだったのではないでしょうか。


※南日本くらしの宝シリーズ・63 (南日本新聞社刊) 「かごしま地名ものがたり」より

三国を守った敵中突破と外交手腕

関ヶ原の合戦後、毛利、上杉など西軍の諸将が減封や改易など苛酷な処分を受けた中で、島津氏だけが本領を安堵されたことは、歴史上の大きな謎とされています。


関ヶ原の合戦で、薩摩は石田三成方(西軍)につきました。西軍の敗勢が濃厚になり、島津勢は退却しようとしましたが、鹿児島に帰るには家康本陣の正面を敵中突破するしかなく、島津義弘率いる薩摩勢は、千名の軍勢が80人にまで減少 するほど厳しい戦の末、伊勢街道を経由して鹿児島へ帰還しました。
義弘が帰還するや否や、国境を閉ざし、国をあげて臨戦態勢を整えるとともに、義弘の兄義久が家康に対して粘り強く外交交渉を行った結果、薩摩・日向・大隅三国を寸土も削られることなく、本領を安堵されたのです。
家康がかくも寛大な処分をとったのは、
  • 関ヶ原の直後で、まだ諸大名を島津征伐に動員するだけの政治的基礎が確立していなかったこと
  • 朝鮮の役と関ヶ原における島津勢の強さからみて、島津征伐が容易でないと想像されたこと
などが理由とされているようです。


しかし、これだけでは、領土を全く削られなかった理由としては弱いようです。
これについては、もう一つの説があります。すなわち、16世紀、日本と中国の明の間に朝鮮半島を経由するルートと、琉球を経由する福建省ルートの2つの交易ルートがありました。
このうち朝鮮半島ルートは朝鮮の役後ほとんど途絶されており、福建省ルートについては薩摩が独占し、莫大な利益を得ていました。義久は、家康に対し、この利益を徳川幕府に譲ることと引換えに寛大な処置を求め、もし幕府が島津を攻めるならば、福建省ルートを潰してしまうと脅しをかけたのではないか、そして、家康は、島津征伐の困難さ、日明貿易による利益などを秤にかけて、島津を赦したのではないか、という説です。


関ヶ原の戦後処理に見られる薩摩の交渉能力、したたかさ、粘り強さは、いわゆる薩摩隼人の単刀直入、剛毅朴訥なイメージからは想像しにくいのですが、これらは薩摩隼人のもう一つの顔ともいえます。

宝暦治水と鹿児島・岐阜県の姉妹盟約

濃尾平野を流れる木曽・長良・揖斐三川は、大雨ごとに氾濫を繰返し、周辺の村に大きな被害を与えていました。そこで、幕府は、抜本的な治水対策を講じることとし、宝暦3年(1753年)12月、薩摩藩に治水工事を命じました。
当時の薩摩藩は多額の借金を抱え、治水工事による新たな出費は藩にとって非常な難題でした。この時、藩論をまとめ、治水工事の最高責任者となったのが家老平田靱負(ゆきえ)です。平田は藩士約千人を率いて美濃に赴きました。


宝暦4年3月から工事が始まり、まず、堤防の復旧・保全工事を行いました。5月から9月までは工事材料調達の期間に充てられていましたが、この間、揖斐川がたびたび氾濫して堤防に大きな被害が出、藩士は昼夜の別なく応急処理と復旧工事に奔走しなければなりませんでした。
秋の工事は、三川分流のための大榑(おぐれ)川洗堰(長さ178m 、幅42m)と油島堤防工事(長さ約2km)、猿尾と呼ばれる突堤等、膨大な工事量になり、翌年3月までかかりました。


1年半の工事は薩摩藩士にとって、慣れない気候風土や言葉、粗末な食事、赤痢の蔓延(まんえん)、幕府役人や地元との軋轢(あつれき)など、筆舌に尽くしがたい苦労の連続でした。この間に合計84人の藩士が犠牲になっていますが、このうち52人は、切腹により亡くなっています。平田は、幕府の検査や工事関係者 の帰国を全て見届け、国元へ報告書を書いた後の宝暦5年5月25日、多くの犠牲者と40 万両の出費の責任をとって、切腹しました。


帰国した工事関係者は工事について多くを語らず、薩摩藩内では次第に治水工事のことは忘れ去られていきましたが、地元の人々は薩摩藩に対する感謝の気持ちを忘れず、子から孫へ、その功績を語り伝えていきました。
薩摩藩士たちが植えたといわれる岐阜県海津町の千本松原には治水神社が建立され、義士たちが祀られています。昭和46年、鹿児島県と岐阜県は、宝暦治水を機縁として姉妹県盟約を結びました。教職員や研究職員の交換交流、児童生徒の交流など、両県の交流はしだいに深まってきています。薩摩義士の偉業がとりもった両県の縁を大切にしたいものです。

数多くの偉人を輩出した加治屋町

鹿児島では幕末から明治という時代にかけて、多くの偉人たちが誕生しました。その中でも下加治屋郷中、つまり現在の加治屋町では、特に西郷隆盛、大久保利通をはじめとして日本の歴史に大きな影響を与えた人々が生まれました。この加治屋町の戸数はわずか70程度だったとい いますから、そのなかからこのように有名な人々が次々と輩出されたのはたいへん珍しいことです。
当時は薩摩藩に特有の教育が施されていたので、その教育方法が大きく影響しているのではないかといわれていますが、確かなことはわかりません。
  • 西郷 隆盛(1827~1877)
    斉彬に見出され、その命により国事に奔走した。明治維新の最大の功労者だが、 遺韓論に敗れて下野し、西南戦争において自刃した。
  • 大久保利通(1830~1878)西郷とともに藩論をまとめ、明治維新を成し遂げた。明治新政府の中枢として、地租改正、産業振興等に尽力、近代日本の基礎を築いた。
  • 西郷 従道(1843~1902)
    隆盛の弟、16才年下。通称信吾。元師海軍大将。海軍大臣15年、内務大臣3年。 日本海軍の基礎を築いた。
  • 黒木 為とも(1844~1923)
    陸軍大将。日清戦争では第6師団長、日露戦争では第一軍司令官で鴨緑江を渡河、奉天会戦に勇名をはせた。生涯武人。
  • 東郷平八郎(1847~1934)
    元師海軍大将。東宮御学問所総裁。日露戦争では、連合艦隊司令長官として、 ロシアのバルチック艦隊を日本海で撃滅した。
  • 大山 巌(1842~1916)
    隆盛の従兄弟、元師陸軍大将、陸軍大臣。日露戦争では、満州派遣軍総司令官として、世界最強のロシア陸軍を破った。
  • 村田 新八(1836~1877)
    宮内大丞として宮内改革。岩倉欧米視察団に随行。西南役薩軍二番大隊長。西郷と終始運命を共にした。長男岩熊も戦死。
  • 山本権兵衛(1852~1933)
    海軍大将。総理大臣。海軍諸制度の改革に尽力。日清、日露戦争では海軍の中枢として政戦両略に活躍。2度にわたり首相になった。

カリフォルニアのワイン王と日本のビールの開拓者

1865年、薩摩藩英国留学生として渡英した19 人の少年たちの中に、ブドウ王・ 長沢鼎(かなえ) 、日本ビールの開拓者・村橋久成の両名がいます。
イギリスからアメリカに渡った長沢鼎は、ブドウ園で働きながら苦労を重ね、カリフォルニア州サンタ・ローザでカリフォルニアワインの製造に成功、生涯をアメリカで過ごしました。村橋久成は帰国後、北海道開拓使として国産ビールの製造に情熱を注ぎ、官営ビール醸造所(サッポロビールの前身)で「札幌名産冷製ビール」の誕生の基を築きました。焼酎の国・鹿児島の若い情熱が、異郷の地でワインとビールを生み出したのです。


村橋や長沢など、19 人の若者は、その後それぞれの道を歩んでいきます。新政府や経済界で活躍した者、鹿児島で教師として一生を終わった者など、その運命はさまざまですが、英国留学生としての誇りはそれぞれの胸に終生刻まれていたことでしょう。

「知覧の特攻おばさん」鳥浜トメさん

第二次世界大戦末期、本土最南端の飛行場であった知覧飛行場は、陸軍の特攻基地となりました。
当時知覧町中郡にあった鳥浜さんの経営する食堂は軍の指定食堂として、特攻隊員たちの憩いの場でした。鳥浜さんは、若い隊員をわが子のように可愛がり、隊員たちもまた鳥浜さんを母親のように慕っていました。


昭和20年3月、沖縄方面 に対する特攻作戦が始まってからというもの、最後の思い出にと食堂を訪ねてくる特攻隊員たちを、鳥浜さんは家財道具を売ってもてなし、この悲劇的な作戦の一部始終を見届けてきたのです。


戦後は、隊員の遺徳を後世に伝えるとともに平和の尊さを語り継ぎ、特攻平和観音の建立に尽力、全国の関係者から「特攻おばさん」と呼ばれるようになりました。
鳥浜さんは、平成4年に89才で亡くなりました。鳥浜さんには、平成4年3月、知覧の名誉町民の称号が贈られています。

甲突川の五石橋

鹿児島市の中心を流れる甲突川には、かつて、玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋など、いくつもの美しい石橋があり、市民に親しまれてきました。
これらは、1845年頃から順次、肥後熊本の石工、岩永三五郎により建てられたもので、長年の風雨に耐え、最近まで実用に供せられてきました。しかし、平成5年8月の大水害により、新上橋と武之橋が流失し、また残った三つの橋についても、河川改修の過程で移設されることになりました。
現在流失を免れた西田橋、高麗橋、玉江橋は鹿児島市祇園之洲の石橋記念公園に移設保存されています。

焼酎の落書きをした宮大工

昭和29年、大口市の郡山八幡神社改修のおり、一枚の板切れが発見された。そこには「座主(神社の主人)がケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった」という文句が書かれていた。永禄年間の宮大工が落書したものといわれるが、「焼酎」という文字は、これが最古とされている。


それにしても、400年後に出てきた鬱憤により、ここが焼酎の発祥の地である証拠、という説まで出て、なんとも人さわがせな落書である。
平成5年には、神社の北隣に大口市立の焼酎資料館がオープン。製造工程や商品の展示など焼酎のすべてがわかるようになった。落書の複製も飾られている。

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