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更新日:2020年6月30日

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「県民の日」記念式典子どもたちの鹿児島に対する想い

「県民の日」記念式典子どもたちの鹿児島に対する想い

「県民の日」記念式典(令和元年7月14日)は悪天候のため中止となりましたが,当日,県内の小中高校生7名が発表する予定の「鹿児島に対する想い」をご紹介します。子どもたちが鹿児島の未来,自分の未来について,想いを綴っています。

鹿児島市市立玉龍高等学校和真(しんにょうは一つ点)

tuji

私は,鹿児島が大好きです。
私は鹿児島という,自然・歴史のたくさん詰まった町で生まれ育ちました。
私が最もあこがれを抱く鹿児島の偉人は,西郷隆盛です。
西郷隆盛は,薩長同盟の成立、王政復古の成功,戊辰戦争の主導を成し遂げた人で,これらが実現したのは,彼が信頼関係を持つ仲間と,権力にも負けない行動力を持っていたからだと思います。
昨年,大河ドラマ「西郷どん」が放送され,県内外の人に,西郷隆盛の勇姿が伝わり,それとともに彼を育てた町が取り上げられ,今もなお鹿児島は有名な観光地として全国的に知られています。
そこで,私は,今後も鹿児島の高校生として,鹿児島の良さを発信していきたいです。
私たち玉龍高校の生徒は,鹿児島マラソンの応援ボランティア,西郷隆盛の墓がある南州神社を始めとする周辺地域の清掃活動を行っています。これらの活動の中で,今まで自分も知らなかった歴史や,地域の人々の温かさに気づくことができました。
今後も新しく,学校の裏にある福昌寺の清掃をしようという案も生徒会の中で出てきました。
こんな風に,これまで知らなかった鹿児島の歴史や自然に少し触れてみるだけでも鹿児島をもっと好きになれるはずです。
周囲の人々と協力して鹿児島を住みよい町にするため,また,もっとたくさんの人に来てもらえるような場所にするため,みんなで鹿児島の魅力を再発見していきましょう。
そして,魅力あふれる鹿児島をこれからも全国に届けていきましょう。

南九州市立川辺小学校薗莉亜那

douzono

みなさん,「神バナナ」って,聞いたことありますか。神は神様の神です。神バナナとは,南九州市川辺町で栽培されている,皮まで食べられるバナナのことです。
私の父は,この神バナナを栽培しています。私の住んでいる南九州市川辺町は,朝に冷え込み,昼は暖かくなる寒暖差がある盆地特有の気候です。また,川辺町清水には,名水百選にも選ばれているミネラルたっぷりの水が湧き出ています。この環境を利用して,私の父の会社では,無農薬で,バナナに付いた虫を一匹ずつ手で取り除きながら,ハウス栽培により大切にバナナを育てているので,皮まで食べられる,栄養価の高い,おいしいバナナが育つのだそうです。
最近は,神バナナがメディアでも紹介され,全国から注文がくるので,父も忙しそうです。父とゆっくり話す時間が少なくなって少し寂しいですが,こんな素晴らしい仕事をしている父が誇らしくもあります。
私たちの住む鹿児島県は,全国でも有数の農業,畜産が盛んな県です。食べ物は,人間の生活に無くてはならないものです。国内で必要な食料のほとんどを輸入にたよっている今,安心安全でおいしい鹿児島の食材は,全国の人々からますます注目されると思います。
新しい日本の令和の時代をリードしていくのは,鹿児島県かもしれません。神バナナのように,まだ知られていない鹿児島のことを多くの人々に知ってもらうために,私自身がもっと鹿児島のことを知り,そして多くの人々と交流していきたいと思います。

出水市立大川内小学校賢伸

katsura

ぼくの特技は剣玉です。昨年,ぼくは南部九州代表として,剣玉の全国大会に出場しました。会場の皆さん,ぼくの剣玉パフォーマンスをご覧ください。
ぼくは,3才の頃に祖母のすすめで,剣玉を習い始めました。それから,薩摩川内市の剣玉教室に通い,難易度の高い技の習得に励んできました。今では,地域のイベントや福祉施設を訪問して技を披露しています。剣玉パフォーマンスをすると,小さな子からお年寄りの方まで,みんなが笑顔で喜んでくれます。その姿をみると,ぼくまで幸せな気分になれます。
ぼくは,「剣玉でもっと地域や鹿児島を元気にしたい。」という夢があります。剣玉一つあれば,どこでも,誰とでも楽しくコミュニケーションを図ることができます。また,剣玉には,「集中力を高める」という効果もあります。その証拠に大リーグで活躍している大谷選手も,自分のトレーニングに取り入れているそうです。このように,剣玉は,手軽で魅力いっぱいの素晴らしいものです。
ぼくは,剣玉の技術をもっと磨き,多くの人々に剣玉の素晴らしさを伝えることを通して,これからの鹿児島県を元気にしたいです。皆さん,共にがんばりましょう。

湧水町立栗野小学校土原大志

sadohara

2019年5月1日,元号が平成から令和に変わりました。ぼくの周りにも「令和初」や「令和になって初めて」などの言葉があふれ,新しい時代の始まりに,僕の胸はおどりました。そんな中,ぼくは熊本に修学旅行に行きました。熊本城への登り口に加藤清正の像がありました。この像は当時敵対していた薩摩の方を向いていると知り,当時の島津氏がとても強かったことを感じました。
湧水町の松尾城には,島津義弘公が5年間住んでいたそうです。義弘公は関ヶ原の戦いで敵中突破をして鹿児島に帰ってきたことで有名です。そんな島津義弘公をはじめ,西洋技術をいち早く取り入れた島津斉彬公,明治維新を成し遂げた西郷隆盛,大久保利通などたくさんの偉人が鹿児島から出ています。それぞれの偉人について教科書や伝記で調べると,どの偉人も日本やふるさと鹿児島のために懸命に働いてきたことが分かります。ぼくはたくさんの偉人を出した鹿児島で生まれ,育っていることを誇りに思います。
ぼくは,これからの鹿児島に役立つ人になりたいです。ぼくの夢は,物作りの仕事をすることです。なぜなら,父が真空技術を使った物作りをしていて,それが人々のためになっているからです。ぼくは,これからの鹿児島を支えていけるような高い技術を身につけたエンジニアを目指します。この夢をかなえるためにも。今は,勉強をがんばります。

曽於市立大隅中学校越和望

togoe

鹿児島の未来は,私たち若者にかかっています。そんな私たちにできること,それは,夢をもちそれに向かって努力することです。私には小学生の頃から変わらない夢があります。それは故郷である曽於市で,助産師として活躍することです。
私が助産師を目指し始めたのは,小学校4年生の頃です。いとこの誕生がきっかけで,助産師の仕事を始めて目の当たりにしました。産婦さんや赤ちゃんに接する助産師さんの姿は,とても神聖で美しく感じられ,心を打たれたのを今でも覚えています。
今年の5月,職場体験学習で,曽於市の病院に行きました。そこでは,医者や看護師たちの,命に向き合い懸命に働く姿から,たくさんの大切なことを学びました。そしてますます「助産師になりたい」という思いは強くなりました。私たちの,後の次代を担っていく,新しい命の誕生に関わっていきたい。幼い頃漠然と描いていた夢は,進路選択のこの時期に,よりくっきりとした目標になってきました。
現在,大隅地域全体で少子高齢化や過疎化が進んでいます。そして,曽於市には助産院や出産できる産婦人科がありません。だから。私は,妊婦さんたちが愛する地元で安心して出産できるような,お手伝いをしたいと考えています。
明治維新から150年。新しい時代を築くべく活躍した志士たちの熱い思いを引き継ぐのは私たちです。故郷を思う強い気持ちと人を思いやる優しい気持ちをもって,力強く,ねばり強く,夢へ,鹿児島の未来へと一歩ずつしっかりと歩んでいきます。

中種子町立中種子中学校髙優理

hidaka

みなさん,「ビッチョ」と聞いて,何か分かりますか。これは種子島の川でいつも私が捕まえる川エビのことです。釣ったビッチョを唐揚げにして食べると,香ばしい自然の味が美味しすぎて,箸がとまりません。
豊かな自然に囲まれた種子島。私はここで生まれ育ちました。種子島は「宇宙に一番近い島」と呼ばれ,今まで170機以上のロケットが打ち上げられています。南種子の海岸線に面した大型発射場は「世界一美しい発射場」と呼ばれており,海と山が一望できるロケーションの中,発射されるロケットは,迫力満点です。ロケット打ち上げの日には,日本中の観光客が一目見ようと種子島に押し寄せてきて,島が活気づきます。
また,種子島は,サーファーの聖地と呼ばれ,夏の海は多くの人でにぎわっています。その海岸の足下をよく見ると。数百万年前の化石が詰まった石ころがごろごろと転がっています。また,日本の海水浴場の八十八選に選ばれた美しい砂浜も,身近にあります。
鹿児島の未来を考える上で,世界遺産の屋久島や,私の住む種子島の役割はひじょうに大きいと思います。私たち中学生も,自分たちのふるさとの良さを大いに発信し,活気づけていきたいと思います。そして,ビッチョがいつまでも泳ぐ豊かな自然を僕たちの手で守っていきたいです。

県立大島高等学校原真咲

iwahara

「結いの心」とは,どんなに苦しいときでも心を一つにして助け合い,困難を乗りこえてきた奄美の人々の助け合いの精神から生まれたことばです。
昨年,奄美群島は日本本土復帰65周年を迎えました。終戦の翌年,昭和21年,奄美はアメリカの軍政下に置かれ,日本本土から切り離されました。これに対して奄美の人々は,「日本復帰貫徹」をスローガンに,大人から子どもまで参加して,熱烈な運動を展開しました。軍政下で,島外との交易が途絶えたため,食料も不足し,人々の生活は困窮しました。しかし,苦しい中でも,島民は「結いの精神」でお互いに助け合い,非暴力主義の運動を行ったのです。郡民悲願の日本復帰が昭和28年12月に実現した時,運動の先頭に立った泉芳朗は叫びました。「鹿児島県大島郡バンザーイ」と。当時の先人達の熱い思いは,地域に住む私達に脈々と受けつがれています。
現在,奄美はユネスコの世界自然遺産登録を目指し,その美しい自然を人類の宝とするため動いています。私は思います。「豊かな自然に育まれた郷土の発展に向け,先人の苦労を後世に生かしたい」と。今こそ私たち若者が郷土の魅力を再認識し,世界に発信するチャンスです。郷土奄美の発展は,鹿児島県全体の発展へとつながります。私は「結いの精神」をモットーとし,地域社会の発展に尽くす若者達のリーダーになりたいと決意しています。

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