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『薩南学派の系譜−桂庵禅師とその弟子たち』

当館が所蔵する貴重資料の中から数点を紹介します。
 
『桂庵禅師肖像掛軸』
  • No. :6
  • タイトル:桂庵禅師肖像掛軸
  • 著 者 名:不明
  • 出 版 年:不明
  • 出 版 者:不明
  • 出 版 地:不明
  • 種  別:掛軸
  • 請求記号:K289ケ
  • 大 き さ:172.0×54.0(80.0×41.2)
 薩南学派
 中世は地方文化が花開いた時代であった。戦乱で荒廃した京都から貴族や文化人が地方に下向したり,経済的支援を願って戦国大名と活発な交流を続けた。また禅宗寺院が武士たちの厚い帰依により隆盛をきわめ,学僧たちによって宋学が発展した。南九州においても,近衛家と島津家との交流を中心に京文化がもたらされ,さらに海外交易の拠点であったことから,中国文化の影響も色濃くうけた。南九州には島津氏の菩提寺福昌寺(曹洞宗・鹿児島)をはじめ,山川正龍寺(同)・伊集院広済寺(同)・志布志大慈寺(臨済宗)・野田感応寺(同)・坊津一乗院(真言宗)・志布志宝満寺(真言律宗)などの大寺院があり,感応寺を中興した雲山(うんざん)や福昌寺開山石屋(せきおく)といった名僧を輩出した。文明10(1487)年には,11代島津忠昌に招かれた学僧桂庵玄樹が鹿児島にはいり,桂樹院(島陰寺)をたてて,朱子学を講義した。同13年,桂庵は島津氏の重臣伊地知重貞とともに朱子新註の『大学章句』を刊行したが,これはわが国はじめて出版された朱子新註で「文明版大学」「伊地知本大学」とよばれた。また『四書』を日本語読みできるように和点をつけ,『家法和訓』をあらわした。この桂庵がおこした学統を薩南学派という。この学派を天下に広めたのは16代島津義久につかえた文之で,文之は鉄砲伝来の経緯を記した「鉄炮記」などをまとめ『南浦文集』をあらわした。

 桂庵玄樹(応永34年(1427年)〜永正5年(1508年))
 室町時代五山の禅僧で薩南学派の祖である。周防の国の山口生まれで,9歳のときに京都に上り臨済宗の南禅寺で修行し,後に豊後(大分県)の万寿寺に入った。40歳のときに明に渡り,7年間滞在し,朱子学を修めて帰国した。当時,国内は応仁の乱の最中で玄樹は,乱を避けて下関の永福寺に入り,その後,豊後,筑後,肥後を転々とした後に,島津忠昌の招きで1478年に鹿児島に入った。鹿児島では田の浦の島陰寺に入って島津氏をはじめ家臣,僧侶たちに朱子学を教えた。1480年に大学章句という国内最初の朱子新注本を出版す,朱子学を正しい儒学として広めた。その後,飫肥(宮崎県)の安国寺や,京都の安国寺で朱子学を講じ,京都の建仁寺139代管主となった。晩年には薩摩に帰り,伊敷に東帰庵を結んで隠棲し,82歳で亡くなった。玄樹の墓は,伊敷町の電車終点から北西へ約300M,庵の後ろの山にある。国道3号線右側に「桂庵公園入口」の標識が立っている。
 
 
    
『文之和尚肖像掛軸』
  • No. :12
  • タイトル:文之和尚肖像掛軸
  • 著 者 名:不明
  • 出 版 年:不明
  • 出 版 者:不明
  • 出 版 地:不明
  • 種  別:掛軸
  • 請求記号:K289ブ
  • 大 き さ:171.5×53.5(79.3×40.5)

  文之(ぶんし) (弘冶元(1555)〜元和6(1620)年)
  文之の姓は,湯佐氏,名は玄昌,雲興軒,時習斎ともいい,また南浦,懶(らん)雲,狂雲と号した。父は河内の人,日向飫肥南郷の外浦(とのうら)に生まれたので南浦と号したという。龍源寺の大儒一翁に就いて桂庵〜月渚(げっしょ)〜一翁の桂門宋学の学統をついだ。島津義久,義弘,家久の三代の寵遇をうけ,大隅の安国,正興両寺を掌り,また城下大龍寺の開基となった。また,鎌倉建長寺の長となったこともある。かれは臨済僧であったが,儒仏二教の一致を説き,『四書集中』『周易伝義』の和点,『南浦文集』『?愚論(へんぐろん)』などの著があり,大いに世に行われた。門流に如竹,平田純正ら多くの俊秀を出し,如竹の門からは愛甲喜春(きしゅん)を出した。文之は,儒僧たると同時に,義久,義弘,家久三代の黒衣の外交家として大いに働き,ことに琉球服属の時の功は大きかった。鉄砲伝来について『鉄砲記』をあらわしている。参考文献『称名墓誌巻之三』『人物伝備考附録儒家』『三国名勝図会巻之六』
 
 
『重野安繹書掛軸』
  • No. :87
  • タイトル :重野安繹書掛軸
  • 著 者 名:重野安繹
  • 出 版 年:不明
  • 出 版 者:不明
  • 出 版 地:不明
  • 種  別:書掛軸
  • 請求記号:K72シ
  • 大 き さ:184.0×43.5(142.0×33.5)
 
  重野安繹(しげの やすつぐ) (文政10(1827)〜明治43(1910))
幕末・明治期の歴史家・漢学者,字は士徳,号は成斎。薩摩藩士として昌平黌に学んだが,特に古学派の考証学に親しみ,この頃より学才を認められた。帰藩後,藩校造士館で教える。薩英戦争の際にはその談判にあたった。明治維新後,文部省に出仕,明治19(1886)年臨時修史局編修長となり,この間,史料収集を行ない「大日本編年史」の編集を主宰。その学風は厳密な実証主義にたち,児島高徳や楠正成の史話は事実でないと論証し【抹殺博士】とよばれた。またこの間,明治21(1888)年,東大教授となり,東大国史科を設置。史学会会長となり久米邦武・星野恒らと史学科の基礎をきずく。歴史のみならず詩文にすぐれ,明治時代屈指の漢学者であった。文学博士。貴族院議員。「大日本維新史」明治32(1899)年,「右大臣吉備公伝簒釈」明治35(1902)年,「国史綜覧稿」明治39(1906)年,「重野安繹史学論文集」13(1938)年〜14(1939)年
『コンサイス人名辞典 日本編』 昭和56年,三省堂

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