更新日:2016年5月31日

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1島津氏の発祥について

島津氏は,鎌倉幕府の御家人「惟宗忠久(これむねただひさ)」が,源頼朝から島津荘の下司職・地頭職に,更にその後守護職に任じられ,「島津氏」を名乗り始めたことから始まっています。

この島津荘は,薩摩国・大隅国・日向国の三国にまたがる,日本最大の荘園で,近衛家の荘園でした。近衛家は五摂家の一家で,日本有数の強力な貴族ですが,この後の歴史の流れのあちこちで,島津家との縁があります。

島津氏初代「島津忠久(惟宗忠久)」は,「源頼朝の御落胤」だとする伝説があります。
忠久の母は「丹後局」と呼ばれた女性で,この丹後局と頼朝との間に生まれた子どもが忠久だというものです。この伝説は,古くは室町時代の「酒匂安国寺申状」や「山田清栄自記」に既にその記載があります。

伝説によると,丹後局は頼朝の寵愛を受けて子を身ごもりますが,頼朝の正室・北条政子の怒りを恐れ,密かに鎌倉を脱します。そして,摂津国(大阪)で産気づきます。雨の降る夜更けで,里人に一夜の宿を求めても泊めてもらえず,暗闇の中急に住吉大社で産気づいて困っていたところ,住吉大社の末社の稲荷社の神狐が狐火を灯し,その加護で無事に出産したというものです。
この伝説により,島津氏の一族は狐の加護を受けていると考え,稲荷神を信仰するようになります。また,忠久が生まれたときに雨が降っていたことから,雨を縁起の良いものと考え,「島津雨」と呼び吉兆の証と考えており,島津貴久はその故事を元に「時雨軍旗」という旗を作っています。(「時雨軍旗」は尚古集成館(外部サイトへリンク)に収蔵されており,常設展示ではありませんが年に数回の企画展で見ることができます。)

丹後局

丹後局は頼朝の乳母・比企尼の娘で,頼朝の乳兄弟にあたります。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には,文治二年(1182年)に彼女が病に伏せった時に,頼朝が側近の小山朝光(結城朝光)・千葉胤頼(東胤頼)の二人だけを連れて密かに見舞いに訪れている記録と,この時頼朝が彼女の平癒を祈って願掛けを行ったという記録があります。頼朝にとってごく親しい大事な女性だったことがうかがえます。
また,二条院に女房として勤め,「無双の歌人」と呼ばれた女性ですから,きっと雅な女性だったのでしょう。

比企氏

丹後局は非常に安産だったということで,安産の神様として崇敬を受けており,鹿児島市の花尾神社で御祭神として祀られています。その境内には丹後局の墓があり,また,その近くには丹後局が腰をかけて休んだと言われる,丹後局御腰掛石があります。
花尾神社は色彩鮮やかな権現造りの社で,草花を描いた401枚の天井絵もあり,その絢爛豪華さから,日光東照宮に似ていると言われて「さつま日光」と呼ばれており,一見の価値があります。是非おたずねください。
花尾神社(外部サイトへリンク)

地図

丹後局墓

おこけ石

腰掛け石

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史,島津氏正統系図

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