ホーム > 地域振興局・支庁 > 教育・文化・交流 > 戦国島津氏について > 2島津氏初代島津忠久から十四代島津勝久まで,さらに伊作家島津忠良(日新斎)に至る経緯について

更新日:2017年8月10日

ここから本文です。

2島津氏初代島津忠久から十四代島津勝久まで,さらに伊作家島津忠良(日新斎)に至る経緯について

島津氏中興の祖と言われた島津忠良について紹介します。鹿児島では,「いろは歌」を作った人物として有名です。

その前に,島津氏初代忠久から,忠良に至るまでの経緯を簡単に説明します。初代忠久は薩摩・大隅・日向の守護職に補任されていましたが,比企の乱に巻き込まれた関係で,三国の守護職を没収されます。その後薩摩国の守護職は回復しましたが大隅・日向の守護職に関しては復権されず,忠久から四代忠宗までは薩摩一国の守護でした。初代忠久・二代目忠時は基本的には鎌倉に在し,薩摩現地の差配は一族や家人に任せていました。三代目久経は元寇を機会に下向して,以来島津氏の在地化が本格化します。

四代目忠宗は島津氏としては初めて薩摩の地で没しました。五代目貞久の時に,貞久は鎌倉幕府倒幕運動に協力しました。その功により,鎌倉幕府滅亡後,大隅・日向の守護職を回復しました。貞久はこの時の戦いで,東福寺城を落とし,これ以降東福寺城は島津氏の拠点となりました。(現在,東福寺城の跡地は多賀山公園(外部サイトへリンク)となっています。

貞久は,三男師久に薩摩国守護職を,四男氏久に大隅国守護職を分割継承させ(この頃,日向国の守護職は一色氏でした),それぞれ師久は総州家,氏久は奥州家と呼ばれるようになります。

氏久の嫡男大隅国守護職奥州家島津元久は,室町幕府に日向・大隅両国守護職を補任されます。その後,総州家が衰退したので,幕府は総州家に補任していた薩摩国守護職も元久に補任し,元久の時に島津氏は薩摩・大隅・日向の守護職を一手に獲得しました。
七代元久は鹿児島に清水城を作り,この清水城は十四代勝久の時代まで,島津氏本家の居城となりました。また,元久は福昌寺を島津氏の菩提寺として創建します。元久の時に,島津氏の鹿児島支配の大きな支柱が作られたと言えます。(清水城は島津氏の居城となり,前述の東福寺城はいざというときの後詰めの城となりました。現在,清水城の跡地には鹿児島市立清水中学校があります。)
ただ,元久は三国の守護職を獲得はしたものの,49歳の若さで亡くなります。元々支配していた大隅はともかく,薩摩と日向の支配権についてはまだ名目だけでした。元久には嗣子がなかったため,弟の久豊が継ぎ,八代久豊は「本拠地の大隅を固めつつ」「薩摩・日向における実質的支配権を確立する」ことを目的としていました。反乱分子は伊集院氏や総州家,渋谷氏など多数いましたが,21年かけて薩摩一国の制圧に成功しました。次は日向制覇に手をかけた段階で,久豊は51歳で病死します。
九代忠国は,本家相続後,領国内で国一揆が多発して,弟用久とも争いますが,なんとか和解します。忠国の弟用久が薩州家を興し,忠国の庶長子友久が相州家を興し,三男久逸が伊作家を継ぎます。忠国の時に,幕府は忠国に琉球を分国として与えたと伝えられています。

九代忠国は国一揆で苦労し,そのためその後家中や国方に高圧的な政策をとっていましたが,その子十代立久の時は多少それを緩めています。また,伊東氏が日向守護職を望んでいましたが,それを阻止しました。応仁の乱において,島津は東軍に属していましたが兵は動かしませんでした。立久の晩年は比較的平和に過ぎましたが,43歳の若さで亡くなったので,子の忠昌が12歳で十一代当主となります。
九代忠国と十代立久の時に,守護の封建的な領国支配は進みますが,過渡期であり,不安定な時期でもありました。守護の領国支配の権力構造が不安定な時期に,幼主忠昌が当主を継ぐということは,家臣団に下克上される恐れも大きく,実際「国中大乱」と言われるほど騒乱の続いた時期です。忠昌は文学に優れ,桂庵玄樹を招聘して朱子学の一派「薩南学派」の基礎を築いたり,高城秋月を招き水墨画を普及させたり,琉球や李氏朝鮮とも貿易したりなどして,文化活動を盛んに行っており,その点では評価が高いのですが,残念ながら三国の守護としての権威は下っていきました。
忠昌の後,その長男十二代忠治,次男十三代忠隆,三男十四代勝久が相次いで襲封します。十二代忠治は在任期間七年で27歳の時に没し,十三代忠隆は在任期間四年で23歳の時に没しています。忠治も忠隆も文学好きで,平時ならそれも良いのですが,戦国の世では島津氏の守護としての力は弱体化する一方でした。

このような経緯で,十四代勝久の時点では島津宗家の力はだいぶ落ち込んでおり,勝久の義弟(妻の弟)である薩州家当主島津実久が,守護の座を自分に譲るよう勝久に迫りました。そのやり口があまりに苛烈だったため,勝久は,有力分家の伊作家の当主島津忠良に助けを求めます。ここでようやく,島津氏中興の祖と呼ばれた島津忠良(日新斎)に繋がります。

14

系図

島津氏初代から十四代及び伊作島津家の系図(PDF:248KB)

東福寺城と清水城の位置

公園案内図

東福寺城看板

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・鹿児島市史・島津氏正統系図

よくあるご質問

Adobe Readerのダウンロードページへ

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Readerが必要です。Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。

このページに関するお問い合わせ

鹿児島地域振興局総務企画部総務企画課

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?