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更新日:2017年7月21日

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5島津忠良(日新斎)から島津貴久へ

日新斎は,実久との戦いが終わってから伊作から加世田に移り住みました。天文9年(1540)の3月に,加世田城攻略の際に討死した戦没者の供養のために六地蔵塔を作りました。この戦で亡くなった兵であれば敵味方にかかわらず供養の対象とし,今泉寺の住職・政誉上人(せいよしょうにん)を導師として法要を執り行いました。このように,敵味方関係なく供養するところに,日新斎の慈悲深さがあらわれています。この慈悲深さは子貴久,孫義久・義弘などにも影響を与え,義弘も後年大きな戦の後には敵味方問わずの戦没者のための供養塔を建てています。

供養塔

最大の敵だった薩州家実久を下し,元宗家当主勝久は大分に逃げたとはいえ,日新斎・貴久親子が島津宗家の当主として三州(薩摩・大隅・日向)全てを掌握できるところまでいったわけではありません。

勢力図

ここから先は,大隅戦に入ります。
まず,大隅で生別府城(おいべっぷじょう)(現在の霧島市隼人町)を巡る争いがありました。天文10年(1541)12月,十三氏の武将達(島津忠廣(しまづただひろ),北郷忠相(ほんごうただすけ),本田薫親(ほんだただちか),肝付兼演(きもつきかねひろ),禰寝某(ねじめ),蒲生某(かもう),伊地知某(いぢち),廻某(めぐり),敷根某(しきね),上井某(うわい),入来院某(いりきいん),東郷某(とうごう),祁答院某(けどういん))が,日新斎派の武将樺山善久の生別府城を攻めました。ちなみに,樺山善久は日新斎の娘婿です。

相関図一

貴久は,伊集院忠朗(いじゅういんただあき)に鹿児島と谷山の兵を率いさせて遣わし,生別府城を救援させました。
翌天文11年(1542)3月,日新斎・貴久親子は,北原祐兼と謀って加治木本城の肝付兼演を攻めます。しかし,加治木城の中から兵が反撃してきて,また祁答院・帖佐・蒲生からの兵にも襲われ,北原祐兼は敗れ,復することができないくらいの打撃を受けました。日新斎・貴久親子は,加治木にあえて攻め込まずにそのまま帰りました。この後本田薫親に生別府城は甚だ攻め込まれたので,日新斎・貴久親子は,生別府城については一時手放そうと考えます。
日新斎が喜入式部大輔を遣わして樺山善久を諭して「あなたには他の領地をいくつか与えるから,生別府城からは去ってほしい。」と言います。善久は「生別府城を本田薫親に与えれば,彼は喜んで日新公の命に従い,則ち加治木・祁答院等の将とは離れるだろう。」と言って,日新斎の意見を受け入れ,生別府城を去り,日新斎から与えられた谷山福本村へ移りました。11月には,貴久は本田薫親と盟約を結び,12月には薫親に小浜・努久見田・西郷・小田・日木山等44町の地を与えました。これを以て,大隅はいったん平安を取り戻しました。

樺山
天文13年(1544)8月,貴久の正室・雪窓夫人が亡くなります。雪窓夫人は入来院重聡の娘で,島津義久(12)・義弘(10)・歳久(8)を産みました。(以下,年齢は数え年で記述します。)これ以降,島津宗家と入来院家との関係は悪くなります。

系図

この頃,貴久は伊集院の一宇治城を居城としていました。
天文14年(1545)3月,一時は貴久と敵対していた飫肥城城主島津忠廣(豊州島津家)と都城城主北郷忠相が,同族の家の者達や旧臣を招いて曰く,
「十四代勝久公が他国へ逃走して以来,三州に主がいない状態で,このままでは乱世となってしまう。これは愁うべき事態だ。ゆえに今,正しい国の主をたて,国を統一してもらわないといけない。相州家忠良の嫡男・貴久公は,かつて虎寿丸殿と呼ばれていた頃,勝久公から島津家太守の座を譲り受け,一時は太守となっていた。特に将士としての器は大きく,その叡智は類のないほどである。貴久公の厳しい親である相州家忠良入道日新公は文武両道の良将である。貴久公を太守と仰ぎ,忠良入道日新公をその政道補佐の師範とすれば,国家は平和に治まることは明白で,逆徒は退散すること疑いなしである。この考えをどう思うか。」と尋ねたところ,皆口をそろえて同意し,「そうすれば国家は安泰である」と意見の一致を見たので,島津忠廣と北郷忠相は,急いで伊集院の一宇治城に貴久を訪ねて,伊地知・本田の旧臣譜代の家老に相談して,「貴久公を太守として仰ぎます。」と申し入れました。
同じ頃,摂家・近衛稙家(たねいえ)が,貴久に玉札と束帯を送りました。これは実質守護職のお祝いの装束となりました。(第1回の「島津氏の発祥について」でも説明しましたが,元々島津氏は鎌倉時代に惟宗忠久が近衛家の荘園「島津荘」の下司職・地頭職になったことから発展した一族ですので,近衛家との縁は浅からぬものなのです。)この頃から,貴久は,島津宗家当主が名乗る「三郎左衛門尉」を名乗り始めました。ほぼ島津宗家当主として内外から認められたと言って良い状況です。(正式に朝廷から宣旨が出るのは天文21年です。)貴久はこの時32歳です。

近衛氏からお祝い

日新斎は,加世田に移り住んでから,数年かけて領内の子弟教育のために「いろは歌」を作ります。「いろはにほへと…」から始まる47首の歌で,「人はかくあるべし」という規範を示したものとなっています。その後の薩摩藩の郷中教育の根本となりました。
この「いろは歌」について,日新斎は近衛稙家に添削をお願いしますが,近衛稙家は,「遠国(都から遠く離れた国)の人の歌など面白いことはあるまい。」と思っていましたが,「一首をごらん遊ばすとその思い違いに気づき,一首一首を真剣に終始ごらんになり,御賞美になった。これは凡人の詠む歌ではない,と衣冠を正してごらんになった。」と伝えられています。

いろは歌

天文16年(1547),貴久の四男家久が誕生します。
天文17年(1548)のことです。かつて天文11年(1542)に大隅・生別府城を巡る争いで,貴久が生別府城の元々の城主樺山善久に折れてもらって同盟を結んでようやく収まった本田薫親が,天文17年に,さまざまな問題を起こします。家臣の伊地知又八郎や本田又九郎等十余人を殺したので,下の者たちは薫親を怨み,逆らって去りました。このごたごたで本田氏の一族の一人・本田親知が薫親を襲ったり,それに乗じて他の氏族(北原氏,肝付氏,渋谷氏(祁答院氏),上井氏,敷根氏,廻氏など)が日当山を落としたり生別府城を襲ったり外郭に悉く火を放ったり小村・浜市に火を付けたりしました。火はまわりを悉く灰燼と化し,見る者全てを驚かせました。

この近辺には大隅正八幡宮(鹿児島神宮)があり,火は神宮のある宮内地区に被害を及ぼそうとしていました。正八幡大菩薩は島津宗家の崇敬を受けており,この社殿の長の留守居・桑波田氏が貴久に遣いを出して,神宮を警護してほしいと求めました。
貴久はこれを聞き,神宮の宮寺を守るために兵を救援に向かわせたいと思い,一族や父日新斎と話し合いますが,海路も陸路も困難であるため,進退をどうすべきか決めかねていました。
そこに老父日新斎が貴久に「救兵を出さずに宮寺を守ることはできない。軍を出そう。」と言います。伊集院忠朗と樺山善久を派遣し,伊集院忠朗は本田氏側の管理する咲隈城に入り,門壁を堅く城の堀を深くすると言って城に裏工作をします。この際に,連夜狐火の瑞兆が現れたので,忠朗は「島津氏を守護する稲荷の狐の加護があるぞ」と喜んで工作を進め,計画を謀って生別府城を落とします。樺山善久は神宮の神職達の間に潜り込んで,生別府の民を諸葛孔明の七縦七擒(しちちょうしちきん)の例えのごとく思い通りにコントロールし,まとめました。
伊集院忠朗と樺山善久は,このような功をあげ,その後廻氏・敷根氏・上井氏等が戦わずして降伏しました。樺山善久は,生別府の領地を回復しました。
同年8月,伊集院忠朗は北原氏が守っていた日当山を落とします。兵法を知り,武略を得ている忠朗なればこその成果です。また,姫木城の本田薫親は,貴久の旗下に従います。
同年9月,日新斎が大隅正八幡宮に詣り,北郷忠相と話し合った結果,本田薫親の嫡子・本田親兼(ちかかね)を召し出して,清水(きよみず)75町を与え,一連の暴虐を許しました。しかし本田親子は幾日も経ずして,また北原氏・祁答院氏・加治木の肝付氏と合同で陰謀を企てたので,同年10月,日新斎は軍を率いて大隅清水城(きよみずじょう)へ向かい,旗を掲げ,鈍い鳥が隠れるのを追い詰める鷹のように俊敏に天を駆け,本田親子を防御の術なく追い詰めます。本田親子は大隅清水城を出て,日向庄内へ逃げ出します。現在の宮崎県都城市付近です。貴久は10月14日,大隅清水城に入城し,そこで軍功の表彰をします。伊集院忠朗は姫木城の地頭となり,樺山善久は大隅に復し,島津忠将が清水城を与えられました。これで本田薫親との戦いは終わりました。

相関図二

神宮火事

天文18年(1549)春,貴久は伊集院忠朗に,「飫肥の島津忠親を助けて伊東氏を討て」と命じます。4月3日に伊集院忠朗と島津忠親と北郷忠相らが,伊東氏を陥れるべく業毎ヶ辻(ごうまいがつじ)に大挙して,敵の首級を300余り斬りました。伊集院忠朗は4月10日には軍とともに戻りました。(しかし伊東氏がこれで滅んだわけではありません。)
日新斎が大隅清水城に来て,大隅の武将は皆日新斎・貴久親子に帰順したのに,ただ一人加治木城主肝付兼演は貴久の元にくだりません。肝付兼演は蒲生氏,渋谷氏らと徒党を組み始めます。
同年5月,貴久は伊集院忠朗を加治木城攻めに派遣します。伊集院忠朗軍は黒川崎に布陣し,肝付兼演・蒲生氏・渋谷氏と連日合戦をします。渋谷氏・蒲生氏は勢力を増し連日弓矢が飛び,鉄砲が撃たれ,数ヶ月人々の耳を驚かせました。これが,鉄砲が種子島に伝来してから初めて,戦闘で使われたことが文書に残った記録だと言われています。
戦闘は11月まで続き,伊集院忠倉(いじゅういんただあお・忠朗の嫡子)が敵陣に火矢を放ち,北風が吹き荒れて敵の陣中は大騒ぎになり,幕舎(テント状の営舎)も戦の道具も何もかも焼失しました。これは人の力のなすところではなく,おごり高ぶる者(肝付兼演)に対しての天罰によるものであると記されています。肝付兼演らは,なすすべなく失墜し,北郷忠相らを通じて投降を許してほしいとお願いします。
同年12月,北郷忠相らに連れられて肝付兼演とその子兼盛及び蒲生氏は,貴久に会い謝罪しました。祁答院氏・入来院氏・東郷氏は使者を使わして貴久に謝罪しました。貴久は伊集院に帰ります。
肝付兼演は既に加治木から投降しましたが,再び加治木及び楠原・中野・日木山等の領地を与えてほしいと言います。
肝付兼演曰く,「そうしてくれれば,今後父子ともに貴久公への忠節を尽くし,もう山北四族(鶴田氏以外の渋谷一族。東郷氏・祁答院氏・入来院氏・高城氏)や蒲生氏とは徒党を組むことはしません。」と言います。楠原・中野・日木山等は樺山善久の領地であったので,貴久は善久に譲ってもらうために,伊集院忠倉に使者として行ってもらいます。
樺山善久は,「まことに肝付氏が渋谷氏と断絶し,貴久公にお仕えするというなら,則ち,帖佐・平松・蒲生は肝付氏の援助を失い,貴久公の旗下に入るでしょう。肝付兼演の提案を受けましょう。」と言い,樺山善久は小浜・堅利の20町地を領有することとなりました。これで加治木を巡る戦いも終わりました。この後肝付兼演・兼盛親子は,本当に貴久・義久に尽くします。

伊集院
天文19年(1550)12月,貴久は鹿児島・清水城(しみずじょう)の南に内城(うちじょう)を建設し,伊集院・一宇治城を去って鹿児島・内城に遷ります。
天文21年(1552)6月,貴久を「従五位下修理大夫」に任じる宣旨が出ました。
14歳で勝久から当主を譲られたはずの時から25年,父日新斎,弟忠将・尚久,その他家臣たちとともに様々な戦いを乗り越えてきましたが,これを以て,貴久は幕府・朝廷からも三州の守護職として正式に認められました。貴久39歳の時です。この時,近衛稙家の仲立ちによって,貴久の嫡男義久(この時点では祖父日新斎と同じ「忠良」の名を使っていました。)が,幕府の許可を得て13代将軍足利義輝の「義」の諱をもらい,「義辰」となり,後に「義久」に改名しました。義久はこの時20歳です。

同年12月,貴久は,島津忠将,島津忠親(豊州家当主),島津忠俊,北郷忠相,北郷忠豊,樺山善久ら一族の重鎮と,結束を固める盟約をしました。
この年,日新斎は61歳になり,生き荼毘往生,つまり生きながらにして荼毘に付される(火葬される)ことにより往生する(それにより島津家の安定と繁栄を祈願する)ことを望みます。その日時も決め,衣装も用意していましたが,子や孫,群臣らが慌てふためき嘆き悲しみ,やめてほしいと訴えます。
家臣らは「国家が大きく変わるときに,薩摩の根本は島津家にあり,島津家の根本は御身にあります。御身が滅んでいかにして島津家が安泰となりましょうか。」といい,日新斎は「国は治まり,家には跡継ぎ(貴久)がいる。貴久は英明で家臣達は実直である。私が死ぬといえども,国家は安泰である。」と答えます。家臣らは再三説得し,日新斎はようやく生き荼毘はやめることとし,空の棺を火葬にして葬送の式を行うことで,大願成就としました。
天文22年(1553),長年日新斎・貴久親子と戦いを繰り広げた薩州家実久が死去しています。42歳でした。

生き荼毘
天文23年(1554)に,一段落ついていたはずの大隅に再びきな臭い火だねが発生します。7月に,祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈隆秋がまた島津宗家に反乱を起こします。肝付兼盛が,蒲生範清に,「ともに島津宗家に協力しよう。」と勧誘しますが,蒲生範清はこれに従わず,両家は怨み合い合戦をしていました。肝付兼盛は天文18年の時の戦いで貴久に負け,その後加治木他の領地を貴久から回復された時の「父(兼演)子(兼盛)ともども貴久公に忠節を尽くします。」という約束を守っていたということです。8月に蒲生範清は菱刈氏・渋谷氏(祁答院氏・入来院氏)と連合で加治木の肝付兼盛を攻めますが,肝付兼盛はこれを防ぎます。網掛川において戦いが始まり,大隅清水の島津忠将・姫木の伊集院忠朗・長浜の樺山善久・宮内の社家から肝付兼盛を助ける兵が遣わされました。

相関図

同年9月12日,貴久と義久は,鹿児島・谷山・伊作・川辺・加世田・阿多・田布施・伊集院等の兵を率いて,加治木を助けるため,帖佐を攻めることとします。翌日,大将・島津義久は狩集(かりあつまり)に軍を進め,日当比良(ひなたびら)に進んで駐屯し,軍配・伊集院忠朗に鹿児島と帖佐の間にある岩剣城を攻めさせます。これが「岩剣城(いわつるぎじょう)の合戦」と呼ばれる戦いで,義久(22)・義弘(20)・歳久(18)の初陣となります。岩剣城は祁答院良重の城です。(祁答院良重は帖佐城主でもあります。)

岩剣城

貴久は下の弟尚久を狩集に駐屯させます。貴久の上の弟忠将は,帖佐を攻撃するため,岩野原で戦いました。9月14日,忠将は船5艘で脇元に侵入し,敵兵を鉄砲で2,3人撃ち伏せます。9月18日,忠将は大隅の兵を遣わし,船50艘を出して帖佐を再び攻撃します。鉄砲で攻撃し,敵軍は敗走しました。この岩剣城の戦いが,島津方が合戦で鉄砲を使用した最初の記録だと言われています。(天文18年の黒川崎の戦いでの鉄砲の記録は,敵方渋谷氏・蒲生氏の使用の記録です。)この頃,脇元に数度狐火の瑞祥が現れたそうです。9月20日には,義弘が兵を脇元に伏せ,歩兵に鹿児島から脇元までの城下の人家に火を付けさせて,稲を刈らせて帰ってこさせます。それを帖佐の軍が追ってきたところを,伏兵を起こして撃破します。これが後に島津のお家芸と言われる戦法「釣り野伏」です。この日,日新斎が日当比良と狩集に戦の様子を見に来て,24日に鹿児島に帰っていきます。

釣り野伏

10月1日,貴久は諸将を会議に呼び出し,「明日岩剣城に総攻撃をかける。尚久は夜のうちに狩集に兵を遣わし,城のあたりに伏せさせておけ。」と指示します。翌2日,義久が先に兵士を遣わし,西門の外郭を焼き,尚久は城下に迫ります。敵は帖佐・蒲生から二千の兵を出して岩剣城を救援しようとしますが,島津宗家側は激しく戦いこれを撃破。祁答院良重の子重経,西俣盛家等,斬首は50余級にのぼりました。
義久は城下に来て,岩剣城を守る兵士らに投降を呼びかけますが相手は応えません。そこで軍を退かせて待っていると,夜に乗じて兵士らは城を捨て逃げ出しました。
10月3日には,貴久と義久が,その他群臣らとともに岩剣城に入城し,お祝いしました。6日には日新斎が鹿児島から岩剣城に来てお祝いし,7日には義久,義弘が鹿児島に帰りました。13日には貴久が鹿児島に帰り,19日には義弘が岩剣城の城主として入り,日新斎が鹿児島に帰りました。義久・義弘・歳久の初陣「岩剣城の戦い」がこれで終わりました。

総力戦
岩剣城の戦いは勝ちましたが,まだ蒲生範清との決着はついていません。天文24年(=弘治元年・1555)正月,貴久は蒲生本城の北西に位置する北村城を兵に襲わせますが,敗退します。貴久と義久と歳久はこれを救援に行きますが,歳久はこの時怪我をします。北村城は落とせませんでした。
3月8日,肝付兼盛が,加治木・溝辺・日当山・長浜の兵を統べて帖佐を攻撃,敵23人を斬りました。3月27日,島津忠将が,帖佐本城を攻めるため大隅の兵を率いて,岩野原に駐屯します。三草に兵を伏せ,4~5人の兵を出して,高樋口を進み,一人を斬り,一人を捕虜にして,すぐ戻ってきます。帖佐の兵は岩野原までそれを追ってきます。そこで,尚久が薩摩軍を率いて出てきて,忠将が帖佐兵の進行方向を横断して,敵の首級8人を斬り,さらに10人を討ち取りました。また「釣り野伏」の勝利です。
島津軍おのおのが勝ち進み,城下に火を放ち,城門を破り,義弘や喜入季久が100余人を倒しました。4月2日の夜,祁答院良重は帖佐本城及び新城,山田城を捨てて祁答院に逃げ出し,貴久はついに帖佐城を手に入れました。しかしまだ祁答院良重は降伏してないし,蒲生範清との決着もついていません。
7月25日,蒲生範清と渋谷氏(祁答院良重)は,今や貴久のものとなった帖佐新城を攻めますが,島津忠将・樺山善久らが,この城を救い,帖佐・鹿児島・加世田等の兵で蒲生・渋谷(祁答院)軍を撃破します。
弘治2年(1556)3月,貴久は蒲生城の周辺地・松坂城を攻めます。元々この時は貴久・義久・義弘・歳久・忠将・尚久・北郷忠相・樺山善久・伊集院忠朗・種子島時尭等,そうそうたるメンバーを始めとした,5千余騎の兵で,蒲生城を攻めるつもりでした。しかし,城の周りを見回ると,矢を打ち込む隙もなく攻めがたい城だったので,貴久の次男・義弘が「松坂城をまず攻めるべきです。そうすれば蒲生城は急速に落としやすくなるでしょう。」と貴久に進言します。貴久の許しを得て,義弘は5千の内,3千人を分けて率い,松坂の要害に押し寄せました。松坂城の門や壁は堅く守られていましたが,味方に四面を囲ませ,山谷からときの声を上げて進みました。敵も城の内から兵に弓矢や大石を投げさせ,防御は緩みません。この時義弘は,三尺の剣で城門を破り,突き進みました。突然一人の兵士が飛び出してきて対決を求めたので,義弘は自ら「島津義弘である。」と名乗り,戦いました。強敵でしたが,義弘はついにその首を取り,戦場を退いて体を見ると,鎧に5本の矢を受けていました。実に義弘22歳,これが初めて敵の首級をあげた日でした。とはいえ,松坂城はこれでは落ちませんでした。
同年10月18日,松坂城に出兵するため,貴久は帖佐城に,義久は山田城に出陣します。10月19日に松坂城に出兵,義弘は鹿児島兵を率いて西の口に,忠将は大隅兵を率いて野頸口に,水の手の口は尚久が薩摩南方の兵を率いて,吉田兵・伊集院兵は敵・蒲生軍の北村城からの援軍の様子を見るため,伏せていました。19日の夜明けに,三方からときの声を合わせて攻め込みました。西ノ口で義弘が合戦し,そのほかにもそこかしこで合戦が起こっていました。城に放火され,ようやく松坂城は落ちました。祁答院氏・蒲生氏の兵の死者は100余人,貴久軍の戦死者は兵士が1人,民間人が1人の,合わせてたった2人でした。
弘治3年(1557)3月,日新斎は蒲生新城に戦況の様子を見に来ました。4月15日,貴久は義久,義弘,忠将,尚久と北村城を攻め,蒲生氏の援助をしている菱刈軍の砦を攻めます。しかし菱刈軍の砦は高い位置にあって貴久軍を矢で射てきて,貴久軍は進むことができませんでした。義弘は先に菱刈軍の陣に登って,楠原という将を斬りました。忠将は火薬火矢を砦の壁にたたきつけ戦いました。菱刈重豊(隆秋の兄弟)は自害し,貴久はついに北村城を奪取しました。この日,義弘は怪我をして本陣に帰りました。蒲生本城を守っていた松坂城・北村城を落とし,貴久はいよいよ蒲生城を落とすための会議をしていましたが,17日に祁答院良重が蒲生範清を許してやってほしいと貴久に使いを出し,貴久はこれを許します。その翌日18日,蒲生範清は使者を遣わして和平を申し入れ,貴久も使者を出してこれを受けます。貴久の家臣たちは,「甘いのではないですか。」と貴久に注進しますが,貴久は「怨みをもって怨みに報いると,その怨みは已むことはない。恩を以て怨みに報いれば,則ちその怨みは止まる。投降してきた者を殺すことはない。蒲生氏は祁答院に送ろう。」と言いました。20日には蒲生範清は自分の城を焼いて,祁答院に落ちていきました。蒲生範清との戦いは決着がつき,これにて「大隅合戦」と言われた戦いは終了しました。

大隅合戦

お祝い
文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図・鹿児島県教育委員会発行「かごしま文化財事典」他

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