更新日:2017年8月23日

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6島津貴久から四人の息子へ

蒲生範清(かもうのりきよ)との戦いはこれで一段落しましたが,次は肝付兼続(きもつきかねつぐ)や伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いが始まります。肝付兼続は肝付家本家当主です。貴久に忠誠を誓った肝付氏庶流の肝付兼演(かねひろ)・兼盛(かねもり)父子とは別の家です。
永禄元年(1558)2月,肝付兼続は庄内の北郷時久を攻撃しました。豊州島津家・島津忠親(北郷時久の実父です。忠親は元は北郷家の当主でしたが,豊州家の継嗣が夭折したため,嫡子時久に北郷家当主を譲って豊州家に養子に入りました。)が助けを遣してこれを防ぎます。しかし,3月,北郷時久は肝付兼続に負け,重要な将を数人失います。
この後も,永禄2年にかけて,伊東義祐や肝付兼続が飫肥(おび)新山城・松山城などを襲ってきて,その都度島津忠親は防戦し,貴久も弟尚久を派遣して助力していましたが,どうにも守るに困難で何人も重要な将が討ち死にしました。
島津忠親は飫肥城に居ますが,「自分の領地の末吉・梅北が伊東氏の領地と接していて,伊東氏が隙あらば侵攻してくるし,自分はもうこの二村を守ることはできない。」と言って,「末吉を貴久公に献上,梅北を北郷時久に譲与したい。」,また「義弘公に自分の養子になってもらって,ともに伊東氏から飫肥を守ってもらいたい」と願い出ます。これを貴久は許します。
永禄3年(1560)3月,義弘は飫肥に赴きます。

義弘養子

同年6月,幕府は貴久に「伊東氏と講和せよ」と手紙を送ってきました。これは島津家と交流のある近衛家の言付けもついてきました。幕府は伊勢貞運(いせさだかず)を,島津家と伊東家との講和のために送り込みます。同年10月,伊勢貞運が末吉まで来たので,貴久もこれに会いに末吉に来ました。伊勢貞運は,「幕府は伊東氏との争いを終息させよと言っている」と言います。貴久は側近の新納忠元,肝付兼盛,樺山善久に対応させます。伊勢貞運とともに来た川井氏は「伊東氏は飫肥を前々から領国としていた。8代将軍足利義政公の時に伊東氏を三国(薩摩・大隅・日向)の守護職とする判を頂戴している。(永禄3年時点の将軍は13代将軍足利義輝)」と言ってきました。
樺山善久は「島津三国の守護は,頼朝公の時代以来依然として島津氏が担っている。伊東氏は都於郡(とのこおり。今の宮崎西都市)一カ所のみを保持していたということは隠すことのない事実だ。伊東氏が飫肥庄内を領国としていたとはひどい虚言だ。伊東氏は飫肥で数度反乱を起こし,ついに恥辱を味わう事態に及んでいる。なおも伊東氏が逆心の旨を言うのなら,(それを支持する)上方のお使いの方も礼儀にかなってないことだな。」と答えました。
結局この時の伊東氏との講和は,伊東氏が幕府の「講和しなさい」という意に背くので,成立させることができませんでした。飫肥についてはしばらく保留にせざるを得ない状況でした。
永禄4年(1561)肝付兼続が鹿児島で宴を開きました。伊集院忠朗(いじゅういんただあき)が肝付家の家臣薬丸氏に「今日の宴で,鶴のお吸い物がなぜなかったのか」と戯れて言いました。鶴は肝付家の家紋です。薬丸氏がこれに答えて曰く「ではそちらがまたいらっしゃる時は狐を一匹兼続公にお持ちください」と言いました。狐は島津家の守護神・稲荷の狐の化身ですから,伊集院忠朗は顔色を変えて怒って帳幕を斬ってしまいました。幕には鶴の紋章があり,肝付兼続は怒って「鶴は我が家の累代の紋である。それを斬るとは,すなわち私を斬るのと同じである。こんな凶兆があろうか。」と言って大隅に帰ってしまいました。
肝付兼続の妻は日新斎の長女・御南です。日新斎は人を遣わして肝付兼続を諫めますが,兼続は受け入れません。

鶴

系図

時に大隅・廻城(めぐりじょう)の主が失明し,その子はまだ幼少でした。同年5月,肝付兼続は廻城を襲い,これを奪いました。貴久と義久はこれに怒り,同年6月に大軍を率いて廻城奪還に向かいました。貴久は弟・忠将(ただまさ)を馬立に,諸将軍を竹原山に配置しました。7月に肝付兼続の家臣や禰寝(ねじめ)氏,大隅の兵らが竹原山の砦を攻撃して,忠将はこれを救おうとしました。家臣の町田忠林が忠将を止めようとしましたが,忠将はこれを聞かず,敵に一直線に向かってしまいました。敵が雲のようにわっとわいてきて,「我が主が不利だ」と思った町田忠林は必死で共に戦いますが,忠将はついに戦死し,町田忠林ら家臣50余人も共に戦死しました。時に忠将42歳でした。
貴久の6歳年下の弟・島津忠将は,貴久と共に様々な戦いに参加し,そのたびに数々の武勲をあげてきた優秀な武将でした。貴久は弟・忠将の戦死の報告を聞くと,旗下の兵を遣わして戦場に馳せ至り,決死の戦いをし,数十の敵の首級をあげました。肝付兼続,それに助力した伊地知重興(いじぢしげおき),禰寝重長(ねじめしげなが)は敗走し,恒吉に退去しました。廻城に兵を置き,貴久・義久親子は帰陣しました。この状況ではまだ肝付兼続との決着はついていません。
貴久の四男・家久はこの廻城の合戦が初陣でした。

ただまさ

貴久は飫肥の島津忠親に養子に出した次男・義弘に,「自分は飫肥の豊州家を決して見捨てるつもりはないのだが,忠将が不意に戦死してしまった今,薩摩大隅の両国が騒がしくなり,宗家存亡の危機となってしまう。おまえに島津宗家に戻ってきてほしい。」と言います。しかし飫肥も大敵・伊東氏が依然として対抗勢力として存在し,防御警護の気を緩めるわけにはいかない状況です。この時義弘の義父島津忠親は「おまえは速やかに貴久公の元に帰り,薩摩を攻めてくる賊徒を平定しなさい。邪な臣を追い払って国家が安泰盤石であればこそ,すなわち我が家の運も開け,民や臣も平安でいられるのだ。」と義弘に言いました。義弘は感涙し,本意ではありませんでしたが飫肥から鹿児島に帰ることとしました。

義弘帰る

この頃,日新斎は嫡孫義久に,当主としての心がけを示した手紙を出しています。
「一つ,不動明王・愛染明王を信仰し,その衆生に対する愛顧の形容をよく見なさい。
つ,ささいなことでも糾明(不正を問いただし,悪い点を明らかにする)することが,身を守るには良い薬である。
つ,ささいなことを糾明せずに見逃すのが,憐憫のあらわれであるように言われるけれど,いずれその憐憫が巳を滅ぼす禍根を残す原因になるのだ。
つ,国家のためには身を惜しまず,過ちを改め,腹立つことなく怒りをこらえ,聖人の言葉に敬意を払い,これらのことを心の底からできるようになれば,則ち天道神慮も仏法も,自分の所にいらしてくださるのだ。
つ,やもめの孤独は哀れである。かりそめにも人を損なうことはせず,戒律を保ち,他人には五徳(仁義礼智信)を正し,五徳を守れない人は閉じ込めることもいとわない,それこそが誠の慈悲である。
この五カ条,諌言のように聞こえるかもしれないが,老耄の至りと思って許してほしい。」とあります。

おじいちゃん

永禄5年(1562)春,義弘は鹿児島に帰ってきました。すると即座に伊東義祐は肝付兼続と協力して島津忠親を再び攻撃し,忠親は防ぎきれず,櫛間に逃げます。その隙に伊東義祐は飫肥を奪い,肝付兼続は志布志を奪いました。
同年3月1日,貴久の下の弟・尚久が亡くなります。32歳でした。

なおひさ

この年,真幸院(まさきいん)という,現在の宮崎南部に当たる豊かな穀倉地帯を巡って争いが起こりました。真幸院の領主・北原兼守が亡くなると,伊東義祐は,北原家家臣が立てた跡継ぎの北原民部少輔を殺害し,真幸院・栗野・横川を奪いました。(伊東義祐は娘を北原兼守に嫁がせていましたが,二人の間に子はないまま兼守は亡くなりました。子どもがいれば伊東義祐も別の方法をとったかもしれません。)北原家の家臣である竹崎地頭白坂下総介と踊城主白坂佐渡介は,貴久を頼って避難し,北原兼親は相良氏を頼って球磨に逃げました。(北原兼親は2月に亡くなった前の領主・北原兼守と,親同士が又従兄弟の関係です。)
同年5月,樺山善久が,白坂氏と計画して北原兼親を北原氏の当主にしたいと言い,貴久はこれを許します。相良氏に協力を要請し,馬関田城(まんがたじょう)を襲ってこれを奪い,徳満城(とくみつじょう)城主北原八郎右衛門尉らは皆兼親に応じました。兼親は飯野城に入り,真幸院は北原氏の領地として回復しました。
一方,伊東氏に与している宮路某は栗野城を,北原伊勢介は横川城を管理していました。貴久は溝辺に駐屯し,伊集院忠朗と樺山善久を遣わして,北原伊勢介に投降を呼びかけましたが,北原伊勢介は応じません。同年6月,義弘と歳久は横川城を攻めます。新納忠元(にいろただもと)と伊集院源介久春(久信)も後から追いついて,城中の兵を潰し,伊勢介とその子新介を倒し,ついに横川城を奪いました。栗野城を管理していた宮路某は白坂下総介を通じて投降しました。北原兼親は貴久の協力で真幸院・栗野・横川を奪った相手を全て倒せたわけですが,樺山善久は北原兼親に「もろもろの領地を貴久公に献上した方がいいですよ」と勧め,兼親はこれに従いました。

同年9月17日,島津忠親が飫肥本城を夜襲で伊東義祐から取り返し,翌日には酒谷城を降しました。忠親は再び飫肥の領主となりました。

真幸院戦

永禄7年(1564)3月,宣旨が出て貴久は陸奥守に,義久は修理大夫に任じられました。同年,北原兼親の伯父左兵衛尉が伊東氏と相良氏と共謀して飯野城の兼親を襲おうとしましたが,この陰謀が発覚すると,左兵衛尉は忽然と逃げ出しました。
この時,「北原兼親は孤立し,相良氏の勢力が迫っていて北原氏の自立は難しい」と貴久は考え,貴久は兼親を伊集院神殿村に移し,義弘が飯野城を治め,真幸院を管理し伊東氏に備えることになりました。義弘30歳の時です。

義久修理大夫

永禄9年(1566)2月,貴久は出家して伯囿斎(はくゆうさい)と号することとなりました。そして嫡男・義久に守護職を譲ることとしました。この時義久は34歳,義久の3人の弟・義弘は32歳,歳久は30歳,家久は20歳になっていました。
伊東義祐が三山に砦を築き,飯野城を攻めようとしていたので,10月,義久は出陣し,義久が大将,義弘と歳久が副将として伊東氏を攻撃します。しかし敵は落とせず,結局島津軍は退きました。
同年11月,肝付兼続が死去しています。56歳でした。

世代交代

永禄10年(1567),菱刈隆秋が,大口・羽月・山野・曽木・馬越・湯尾・平和泉・横川等の地で謀反を起こし,その冬,義久は,父貴久,弟義弘と共に菱刈氏を攻撃しました。義弘は先に馬越城に着き,城の守将を殺し,200余級を斬首しました。横川の菱刈中務少輔は城を捨てて逃げ,菱刈隆秋は,大口城で城を守りながら相良義陽に援軍を頼んでいました。
その後も島津氏対菱刈氏・相良氏両軍は,大口で一進一退を繰り返していましたが,決着がつかないまま年が明けて永禄11年(1568)正月,飫肥ではまた伊東義祐が肝付良兼(兼続の子)と共に飫肥城の島津忠親を攻めようとしていました。忠親の実子・北郷時久が数千の兵を率いて軍を酒谷城に敷き,飫肥に救援を出しましたが,食糧を送る兵は伊東義祐に撃破され,追い詰められていました。それと前後して義弘は大口で菱刈氏に負けています。島津宗家は大口城(現在の伊佐市)で菱刈隆秋・相良義陽と戦い,島津豊州家島津忠親と北郷時久親子は飫肥城(現在の宮崎県日南市)で伊東義祐・肝付良兼と戦い,二つの戦いがこの時離れた地で同時進行していて,島津宗家・島津豊州家のどちらもお互い援軍を送ることもままなりません。

勢力図

大口飫肥戦

同年5月,大口戦(島津宗家)の方は日新斎の考えで,山野の領地を与えることを以て相良氏と講和することになりました。一方その頃飫肥戦(島津豊州家)の方は,伊東義祐が酒谷城を攻めていたので,酒谷城に布陣していた北郷時久は自軍を守るのに精一杯で飫肥城を救援することができません。飫肥城は数ヶ月食糧不足で大変飢えていました。
同年6月,貴久は北郷忠徳を使わし,島津忠親に伊東氏との講和を命じます。6月6日に酒谷城で和議を執り行い,これにて島津忠親は飫肥を伊東氏に,福島を肝付氏に渡し,都城に去ることになりました。しかしその2日後の6月8日,島津忠親は櫛間に去り,伊東氏・肝付氏はそれを追撃しました。7月,忠親は庄内に去り,伊東氏は飫肥を,肝付氏は櫛間を奪いました。8月,伊東義祐は桶比良(おけひら)に駐屯して,今度は飯野城を攻めようとしました。そこで義弘が飯野に戻り,厳戒態勢を敷いて飯野城の守りを堅めました。

ただちか敗走

同年11月,日新斎は病床に伏し,貴久は義久を馬越の守りに残し,日新斎のいる加世田に行きます。この頃,相良氏と菱刈氏が出水感応寺を通じて講和したいと義久に再三遣いを出してきますが,いまだ講和は成立していませんでした。先の5月に一度相良氏とは山野の地を譲渡することで講和したのですが,秋には相良氏は変心して堂崎に軍を敷き,島津側の兵を討っていますので,実質講和は反故になっていました。
この年永禄11年12月13日,日新斎は加世田で亡くなります。77歳でした。法名は「梅岳常潤在家菩薩」,梅岳寺殿(ばいがくじどの),日新寺殿などと称されます。中條二郎右衛門と満富郷右衛門が殉死しました。そのほかに殉死を願う者が十余人ありましたが,日新斎の遺言でこれは許されませんでした。(中條と満富の2名は,20年来殉死を日新斎に申し出ていたので,この「殉死禁止」の制限からは外れました。)

日新斎死

明けて永禄12年(1569)正月,相良氏と菱刈氏が出水野田感応寺を通じて講和したいとまた島津氏側に求めて来たので,20日にこれを許し,講和しました。しかし3月には,相良氏の家臣・深水頼兼が義久の家臣・蒲地越中守が平和泉に行くところを,大口城下でその従者もろとも計17人を殺すという事件があり,これで和議はまた破れました。菱刈軍は島津義虎の守る羽月城を攻め,その外郭を破りました。義久は肝付兼盛・新納忠元を義虎の代わりに羽月城に入れ,末弟家久を市山城に入れました。肝付兼盛・新納忠元は羽月城で,島津家久と大口城の攻略を話合い,5月に,兼盛と忠元は兵を戸神尾(とがみお)と稲荷山に伏せて待機,家久は大口城下まで出てきて敵に姿を見せて帰ってきました。大口城中の兵がこの家久をつけてきて,戸神尾西まで引き寄せられ,そこで伏せていた兵達を起こし,敵兵を挟み撃ちにしてこれを討ちました。釣り野伏です。そして,祁答院の長野城を島津方の諸将が攻撃し,多少苦労しましたが勝利しました。伊東氏はこれを聞いて恐れ,7月に桶比良の砦を捨てて逃げ出しました。
同年8月,義久は貴久と大口城を攻めました。相良氏は家老以下八千人の兵で大口城を守りましたが,ついに降伏しました。相良氏は大口城を義久に献じ,菱刈氏とともに講和したいと言い,義久はこれを許します。長かった菱刈隆秋との戦いがようやく終わりました。(相良義陽については,この時点では島津氏に帰順するまでには至りませんでした。)貴久と義久は大口城に入城し,大口は新納忠元が地頭となりました。

菱刈氏倒れた

元亀元年(1570)正月,渋谷氏(入来院氏・東郷氏)が投降して,領地を献上してきました。義久はこれを受入れ,その上で入來院重嗣に清敷の地を,東郷重尚に東郷の地を与えました。この時他の家臣にも戦勝の功労として領地を与え,また末弟家久を隈城の地頭としました。これで長年の敵だった渋谷一族四氏(入来院氏・東郷氏・祁答院氏・高城氏)の脅威が去りました。
ようやく国内が少し落ち着いたので,同年5月に義久は幕府の新将軍・足利義昭の就任祝いのために喜入季久を遣わしました。6月には,細川藤孝を通じて「近年国内で事件が多かったものですから,お祝いが遅れまして,申し訳ありません。なにとぞ事情をお酌み取りください。」と伝えてもらいました。同年9月,喜入季久は細川藤孝を通じて将軍に謁見し,太刀一腰,馬代千匹,黄金百両を献上し,藤孝にも太刀,馬代五百匹,塩硝三十斤を贈りました。10月には,幕府は喜入季久に書と太刀を持たせて義久の元に帰らせました。

お祝い

元亀2年(1571)6月23日,貴久が亡くなりました。58歳でした。法名は「大中良等庵主南林寺殿」です。

お迎え

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図

 

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鹿児島地域振興局総務企画部総務企画課

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