更新日:2017年12月7日

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7島津四兄弟と三州統一について

島津貴久が元亀2年(1571)6月23日に亡くなり,島津宗家は当主島津義久が三人の弟達を従える,島津四兄弟の時代となりました。

世代交代

同年7月30日に,肝付良兼が亡くなりました。37歳でした。(以降年齢は数え歳で標記します。)
元亀3年(1572)春正月19日,肝付氏は船で大隅小村を襲いました。島津の守方がこれを防ぎ,肝付方の将・岸良将監ら24人を斬り,2月29日には境及び二河で肝付軍を破りました。

肝付氏交代

同年夏5月3日,今度は伊東氏が,伊東加賀守(伊東義祐の弟)・伊東新次郎・伊東又次郎・落合源左衛門尉ら将兵3000騎を出して,加久藤城(かくとうじょう)を夜襲で攻めてきました。後年,「九州の桶狭間」と称される「木﨑原の戦い」の開幕です。
加久藤城は,元々北原氏が領地「真幸院」に築いた「久藤城(ひさふじじょう)」という城でした。それが永禄7年(1564)に「当主・北原兼親はこれ以上領地・真幸院を管理する能力がない(身内と争ったり,伊東氏や相良氏にちょっかい出されたりしていたので)」と見られ,兼親は貴久の命で伊集院へ移転させられました。それ以降真幸院は義弘が管理しており,義弘が「久藤城」を改修して「加久藤城」となったものです。
真幸院は古くから豊かな穀倉地帯として知られており,義弘の管理下となってからも,伊東氏はいまだ真幸院の支配権を諦めていなかったのです。
伊東方は,村落を焼き払って,加久藤城の鑰掛口(かぎかけぐち)(加久藤城の搦め手口です)に向かいました。加久藤城には義弘の夫人が少人数の従者と共に住んでいました。その夫人に召し仕えていた侍女を伊東方に忍び込ませ,侵入路には鑰掛口の細道を推すように言いふらさせていました。
鑰掛口には山伏・樺山常陸坊の家があり,常陸坊はその二人の子らと共に伊東軍を防ぎました。伊東軍は進むことができず,加久藤城からも兵が打って出てこれを撃破,東の空が明るくなり,輪番衆が来たので,伊東軍は引き去りました。
この時,義弘は夜の守り番をしていましたが,肥後民部がたまたま庭に出た際,加久藤城の方向に火が見えました。義弘は報告を受けて岡に登り,加久藤の方向を望み,「どうして失火している?」と言っていると,ここに死苦村の藤村丹波という者が報告に来ました。曰く,「人馬の行軍の声を聞きました。察するに則ち伊東軍でありましょう。」
義弘は,「然るにこれは則ち加久藤城が襲われているということだ。」と,加久藤城を救うために即座に一軍を遣わしました。また,「五代右京友喜(ごだいうきょうともよし)を野間門に伏せ,村尾源左衛門を本地原に伏せ,諏訪山と横尾八幡山は,旗幟(きし・旗印)を張って疑兵と為し,有川雅楽助貞真(ありかわうたのすけさだまさ)は留まって飯野城を守るように」と命じました。
義弘は,麾下の者4,50騎と加久藤城へ向かいましたが,伊東軍が加久藤城から引き去ったと聞いて,その時いた二八坂より南の木﨑原へ向かいました。
一方その頃伊東軍は,まさに帰ろうとしていたところに飯野城の備えが万全であると聞き,あえて元来た道には出ずに,木﨑原の南の白鳥山へ赴きました。しかし,白鳥権現社の座主・光厳上人は,民衆を募り,伊東軍をとげとげしく拒みました。伊東軍は白鳥山を登ることができず,南木場へ赴きましたが,白衣の軍数千人が道を遮ったので,木﨑原に帰り至りました。(國史は,「この白衣の軍は,どこの所属のものかわからない。きっと白鳥権現の霊験の顕れに違いない」と記しています。)

木﨑原

義弘はこれを望み見て,川を進みました。陣を布きましたがまだ整わぬうちに,伊東軍は急に攻撃してきました。義弘の兵卒は数十歩後退させられ,三隅に至ってようやく止まり,死を覚悟して戦いました。
義弘は伊東新次郎等数十人を討ち取り,義弘の家臣・遠矢下総と敵方の長峰彌四郎が戦い,竹下又左衛門と瀬戸口八郎左衛門がこれを助け,ついに彌四郎を斬りました。彌四郎は伊東軍の勇士で,加久藤へ伊東方の増援兵として遣わされたところでした。
島津方の伏兵は皆身を起こし,伊東加賀守及び伊東又次郎・落合源左衛門尉ら数人を討ち取り,伊東軍は敗走しました。

義弘きらきら

義弘は駿馬をむち打ち,軽騎兵を率いて,北へ逃げる伊東軍を亡き者にしようとして追いました。義弘が単騎で小林の内・貝餅田に至った時に,強敵が二人義弘に向かって来ました。一人は柚木﨑丹後守(伊東領内去川の領主です。)と名乗り,もう一人は比田木玄斎といいました。義弘は「我こそは島津兵庫頭である」と名乗り,ついにこの二人を討ち取りました。伝え聞くところによると,柚木﨑丹後守は馬上から義弘に向かって矢を放とうとし,その時義弘が名乗ったので,何を思ったか馬より飛び降りて弓を伏せてかしこまったのです。それを義弘は突き伏せました。
義弘の槍は城州長吉,穂の長さは一尺三寸五分,三角で裏に倶利伽羅が彫られ,八幡大菩薩の文字がありました。
義弘の使っていた馬は,丹後を討ち果たした時,タイミング良く両膝をついて,義弘が首尾良く討ち取れる手伝いをしたので,義弘はこの馬を「膝付栗毛」と名付けて秘蔵の馬としました。義弘は85歳まで存命でしたが,この馬が死んだ時は,帖佐の亀泉院へ葬り,石塔も建てました。

膝突栗毛

義弘は後年,この柚木﨑丹波守の勇敢だったことを思い出し,子孫を探し,24石9斗の家禄を与えました。
貝餅田より先は敵地だったので,追跡はここまでにして,義弘は帰城しました。
横尾に帰り至ると,飯野城で婦女たちが争っておかゆを横尾まで持ってきて軍をねぎらい,義弘はとても喜びました。
伊東氏は,加久藤城を襲う前に,相良氏へ助けを求める使いを遣わしていました。共に戦いの時期を約束していましたが,戦の日に,球磨兵500人が彦山嶽に至り,南の飯野を望むと,木﨑原から白鳥山にわたって白旗が見えました。球磨兵はこれを見て恐れ,少数ではこんな多数の敵にはかなわないと,引き返してしまいました。球磨兵が見たのは,白鷺の群れだったと言われています。(これもまた白鳥権現の霊験の顕れと言われています。)
義弘は,のろしを上げて合図を出し,大口ら諸城に「伊東軍敗走」を知らせました。新納忠元がそれを望み見て,兵を率いて吉松から木﨑原に向かい,敗帰中の伊東軍を追撃しました。伊東右衛門,伊東権之助,長倉四郎兵衛ら160余人を討ち取りました。
義弘は,敵味方の別なく追善供養のために,木﨑原の戦場に六地蔵を建て置きました。貴賤老若の往来の人々が,念仏回向しながら通りました。「木﨑原の戦い」が終了しました。

相良氏逃げた

大隅には,長年島津氏と敵対し,島津氏に「三輩の凶徒」と呼ばれていた武将たちがいました。肝付兼続,禰寝重長(ねじめしげたけ),伊地知重興(いぢちしげおき)です。(肝付兼続は永禄9年に亡くなり,その跡継ぎの肝付良兼も元亀2年に亡くなり,元亀3年時点では肝付氏は肝付兼亮(きもつきかねあき)が継いでいます)
義久は,大隅征伐のために,9月26日歳久を遣わし,翌27日には歳久を早崎に駐屯させました。義久が船で伊地知重興の所領・小浜に向かうと,島津兵たちは勇気が増し,先を争って奮闘し,突き進みました。歳久は小浜の砦を襲い,陥落させ,小浜砦の守将・伊地知美作守を斬りました。ついに小浜の地を獲得し,「前陣」と改名させました。
義久は,北郷時久を肝付氏攻めに遣わし,29日には時久は月野・泰野を攻撃しこれを破り,たくさんの首級を得ました。また,梶山兵を遣わして,肝付氏福島軍を攻撃させました。
冬12月23日,義久の継室・圓信院殿実渓妙蓮大姉(種子島時尭の娘)が亡くなりました。
天正元年(=元亀4年)(1573)春正月6日,肝付氏の軍が末吉に侵攻してきました。北郷時久が二人の子・長男相久,次男忠虎と共に諸住吉原でこれを撃破しました。一方義久は,宝持院と八木越後守昌信を遣わして,禰寝重長に,肝付氏との交友を絶つように勧めました。重長はこれを受入れ,2月26日に,義久は重長に盟書を与え,喜入季久,平田美濃守昌宗,伊集院右衛門大夫忠金(=忠棟・ただむね。伊集院忠朗の孫です。)が,共に重長に盟書を与えました。

三輩の凶徒


3月10日に,義久は薩摩大隅の兵を遣わして,禰寝氏と共に肝付氏の討伐に向かいました。14日には肝付氏を攻撃しましたが効果はなく,高洲を掠め取って,船を奪って帰りました。18日には西俣に進み至り,肝付氏が攻めて来ましたが,島津右馬頭征久(=以久・もちひさ)(島津忠将の嫡子),島津忠長(島津尚久の嫡子)らがこれを撃破しました。以久と忠長は義久の従弟です。
禰寝重長もまた同じく在軍中で,凱歌を上げて帰陣しました。その後重長は指宿に渡り,義久に謁見し,また義久に従って鹿児島まで来ました。義久は遊会を設け,重長を数日饗しました。この天正元年に禰寝重長が肝付氏・伊地知氏の一派を離れ,義久方に属したので,一揆は禰寝で逼迫することになります。
秋7月24日に,肝付氏は早崎の陣営を襲いましたが,家久が太刀を取り,従者2,3人と共に敵に馳せ向かい挑戦し,敵数百人の中に切り込み戦って,体中に怪我を負いながらも(特に深いものは8カ所もありました)これを退けました。この時家久は実に27歳でした。喜入小四郎久続,平田美濃守,平田左馬助,木脇刑部左衛門尉に戦功がありました。久続は季久の弟です。
かつての島津家第14代当主・島津勝久は,その昔般若寺から庄内へ北郷氏を頼ってきて,鹿児島への復権を求めていましたが,事は叶わず,大友氏を頼って(勝久の母は大友氏出身だったので)豊後で暮らしていました。その島津勝久が,この年の冬10月15日に豊後の沖浜で亡くなりました。71歳でした。
肝付氏家臣・安楽備前守が牛根城を守っていましたが,12月14日,島津氏方の諸将が平常岡に進み,駐屯して,これに迫りました。肝付加賀守は佐土原(伊東義祐の本拠地)に赴き,もし救いを寄越さないなら,島津方に降伏すると言って,伊東氏に兵を出してくれるよう乞いました。

天正2年(1574)春正月3日,肝付軍は牛根城を救おうと,茶園尾を獲るべく攻めてきました。島津忠長・川上上野守久信らがこれと戦い,その先陣は勢いが甚だ鋭く,肝付軍は退きました。忠長・久信はついに茶園尾を占拠しました。安楽備前守は投降したいと乞い,島津方はこれを許しました。
伊東氏は伊東権頭を遣わし,肝付氏と伊地知氏と兵を合わせて,牛根城を救おうとしましたが,行く途中,薩摩軍が既に地の利を得たと聞き及び,帰ってきました。19日,伊東方は一転して禰寝氏を攻め,村落を焼きました。喜入季久がこれを防ぎましたが,弟圖書助忠通,小四郎久続が戦死しました。島津方は敵兵100余人を斬ったので,伊東軍は引き去りました。
20日,投降した安楽備前守は弟の彦八郎を人質に,島津方は新納忠元の子刑部太輔忠堯を人質に交換し,和議を結びました。22日に新納忠元が牛根城に入城します。

肝付氏弱体

肝付氏も兼続と併せて嫡子良兼も亡くなり,その弟三郎四郎兼亮の代になっていますが,前年である天正元年の正月に,住吉原の軍に,北郷時久より肝付勢430余人が討ち取られ,禰寝重長も降参した状況で,肝付氏に仕える兵もよほど弱っているようでした。そこで和睦の話が出ます。肝付氏方の親族の肝付越後守兼純の母と,島津氏方の新納忠元の母,併せて浄光明寺の僧・其亜西嶽と,三人が皆兄弟なので,忠元と申し合わせて僧其亜をお使い僧として仰せ付け,伊地知重興と肝付兼純を篤く諭し置いて,肝付兼亮を和睦させるよう勧めました。27日,義久は早崎から鹿児島へ帰り,今度の戦いについての新納忠元・本村筑前守・逆瀬川奉膳兵衛尉・久富伴五左衛門尉らの功労をねぎらいました。
この年の2月,伊地知重興は義久に降り,下大隅の5カ所を義久に差し上げ,降参を奉願しました。25日には伊地知重興の嫡子・伊地知三郎九郎重昌が鹿児島・内城に参じて義久に謁見し,降参を受け入れてもらったお礼を申し上げました。肝付兼亮もついに義久に降り,廻・市成・恒吉の三カ所を義久に献上し,和睦の願いを申し上げ,また兼亮から義久への盟書に曰く,「今より以後,無二の奉公を誓います。」と伝えました。義久から兼亮への盟書に曰く,「無二の奉公,忠順を喜ばしく感じます。今より以後,悩みや苦しみを相憂うように,気持ちを一つにしましょう。」と伝えました。これでついに肝付氏本家を降しました。

和睦

この頃,足利義昭が織田氏から京都を追放され,紀州に在留していましたが,この年・天正2年夏4月14日,足利義昭は江月齋を遣わして,義久に助けを求めたり,一色式部少輔藤長が手紙を伊集院忠棟・平田美濃守に出して,義久に足利義昭を助けるよう勧めさせたりしました。8月には江月齋が鹿児島に詣で,頴娃氏の別館に泊まり,9月には義久が江月齋を内城で宴で歓待しました。
秋8月1日,家臣たちが義久に太刀を献上するため赴いた時に,入來院重豊(父・重嗣が義久の従兄弟)の使者・村尾蔵人が,東郷氏の使者の後に献上したいと請うたのですが,老中がこれを許さず,東郷氏の後は禰寝氏になりました。上井伊勢守覚兼と本田因幡守親治が村尾を諭しましたが,村尾蔵人は納得できず,太刀を献上せずに帰ってしまいました。その後,入來院重豊は義久に対して謀反の心を持っているとの流言が飛び交いました。群臣は皆,謀反の心がある者と肩を並べたくないと言います。義久は重豊に,取り立てて大事にすることはせず,「自分で衆人の疑いを解きなさい。」と言いました。重豊は家臣の山口筑前守・東郷美作守を遣わし,伊地知勘解由・上井覚兼を通じて,義久に領地を献上させてくださいと請いました。入來の本領を除いて,義久が求めるところを献上すると言いましたが,義久は辞退しました。重豊は固く請うて「山田・天辰・田崎・寄田を献上します」と言います。義久曰く,「昔,父・伯囿公(貴久)が入來院氏に,縁海の村を選び,ここにおいて以て寄田を与えた。こんにちどうしてそれを取り上げることができようか。」と言い,すなわち(寄田以外の)山田・天辰・田崎を受け取りました。16日,重豊及び家臣五人が血判を義久に出しました。
9月10日,義久は北郷時久に盟書を与え,伊集院忠棟・平田昌宗・村田経定・川上意釣もまた時久に盟書を与えました。11日には義弘もまた時久に盟書を与えました。
同時期に,今度は島津義虎(薩州家・島津実久の嫡子。義久の長女と結婚)が,謀反の陰謀があるのではという流言が飛び交いました。義虎は恐れおののき,書を以て喜入季久に冤罪を訴え,必死になって義久に潔白を主張しました。

天正3年(1575)に入ってしばらくは平和でした。國史には,春正月元日,義久が神社に拝謁したり,大乗院・福昌寺・南林寺・不断光院・浄光明寺にお参りしたり,たびたび家臣や兄弟と宴会をしていることが記されています。2月には,家久が,義久の三州統一を祈願するために上洛します。(2月7日~7月20日)家久はこの時,安芸の宮島・厳島・愛宕山・清水寺・石山観音・伊勢神宮・東大寺・住吉大社などに参詣しています。これは「家久君上京日記(いえひさぎみじょうきょうにっき)」に事細かに書かれています。
3月15日,犬追物が開催されました。射者は12人おり,義久は第一位におり,まさに出んとしていたところ,御対面所で,酒を三献じました。義久は褐色藤紋の上衣を着て,堂の下より騎馬で出て,29匹に射て当てました。(犬追物は,犬が怪我しないように,特殊な鏑矢で行われます。)歳久は13匹当て,その他の者は多くて11匹・少ない者は1匹という結果で事は終わりました。義久は棚屋で作法にのっとり再び酒を三献じ,供物を進上し,射者は杯を賜りました。16日・25日も犬追物を開催し,この時の犬追物はおよそ三日間の開催となりました。
3月27日,琉球から文船が来ました。これより先だって,義久は老中に「書を作りなさい。」と命じ,三司官(琉球の宰相のことです。)に与えました。この年の琉球の態度が島津氏に対して恭順の態度とは思われなかったため,数条にわたってそれを詰問する内容でしたが,いまだ対応がありませんでした。4月1日には,長門守と上井覚兼を遣わし,その前の書のことを使者に問うと,琉球の使者は謝りましたが,老中は今年の貢ぎ物が粗末で少なかったため,これを退けました。使者が黄金30両を加算するので許してほしいと請うと,老中はこれを許しました。しかし義久はこれを許さず,「そんなことはやめなさい。」と命じ,金を請求することが義久の意図するところではないと諭しました。
義久は琉球からの使者と内城で対面し,宴を開きました。また,使者をもてなすために犬追物を開催しました。
8月,歳久も上洛しています。義久の使いの川上筑前守忠真・八木主水佑等の指南で,市来の湊より船に乗って,海路で無事に着きました。朝廷で歌道を伝習し,洛中に在する際,連歌師の紹巴の興行を一会請うて,青蓮院尊朝自書と尊道親王の色紙,また,近衛関白太政大臣前久公の自書を賜っています。

上洛

同年秋9月,先の関白・近衛前久(このえさきひさ)が筑紫に赴きました。前久は稙家(たねいえ。貴久にいろいろと便宜を図ってくれたことがあります。)の嫡男です。
冬10月,犬追物をおよそ2日間開催しました。
かつて,肝付兼続には,良兼・兼亮・兼護という子がいました。兼続及び良兼は死亡し,良兼は伊東義祐の娘・高城を娶っていました。高城は,娘を産みましたが息子は生まれませんでした。
兼続の妻は日新斎の長女・御南です。つまり御南は義久にとっては伯母です。
良兼の娘を良兼の弟・兼亮の妻とし(良兼は御南の子ですが,兼亮は御南の子ではありません。),兼亮は肝付本家の跡継ぎとされていました。兼亮は天正2年に義久に帰順し,盟書も進上しています。且つ,まさに本府(内城)に行き主君(義久)に謁見したいと言っていました。しかし天正3年時点でいまだ果たされず,御南はこの子が肝付家を保てる主の器ではないとして,兼亮を追い立てました。兼亮の弟の,まだ小さい与一を跡継ぎに立て,兼亮の妻を取って与一に娶せました。与一は兼護の幼名です。(兼護も御南の子ではありませんが,御南は甥・義久に直に「与一は3歳の時より私が取り立てて,直接の子同然でございます」と言っています。)
また,かつて,(永禄11年・1568)肝付良兼は豊州島津家・島津忠親から櫛間を奪いました。元亀2年(1571)良兼が死去し,跡を継いだ弟・兼亮は天正2年(1574)に義久に帰順しました。長年の敵だった肝付氏を降した義久は,肝付氏に対して,櫛間を肝付氏の領地としてつかわし,且つ,判物も授けました。
豊州島津家・島津朝久(ともひさ。忠親の子)はこれを喜ばず,「櫛間は我が家の旧来の地である。なにゆえ他人に与えるのか。」と言っていました。兼亮が御南に追われ,逃げ出したのに及んで,新納意月・柏原権介・因本田親治・上井覚兼を遣わして,義久に櫛間を求めました。
義久はこれを許さず,「兼亮は出て行き,いなくなったといえども,肝付氏は無二の奉公を盟書で誓った。どうしてその村(領地)を奪えようか。」と言いました。

肝付氏大変

11月11日,御南と高城が伊地知勘解由・上井覚兼を通じて牧瀬宮内少輔を遣わし,兼護を肝付家当主として立てていくことを進上し,かつ,再び伊東氏と親しくすることはないと言いました。
12月7日,肝付氏の家老・薬丸出雲入道孤雲は,飯熊山別当と巌龍寺の二人を遣わし,伊東氏に,交友を絶つことを告げました。肝付治部左衛門は高城を奉じて,志布志を拠点にしました。伊東義祐は,河崎駿河・河崎紀伊を遣わし,軽兵百余人を率いて,娘・高城を奪おうとしました。13日には櫛間に向かいましたが,薬丸孤雲はこれを拒み,入れさせませんでした。伊東軍は志布志に赴きましたが,相手は軍備の備えがあってまた入れず,退き,波見村に駐屯しました。

肝付氏系図

修理大夫忠良(かつての第14代島津宗家当主・島津勝久の嫡子です。)が,豊後から帰り,高山に拠点を置きました。肝付氏を頼り,浄光明寺に頼って,義久の領地に託されることを望みましたが,義久はこれを許しませんでした。12月14日に,上井覚兼・白濱周防介を遣わし,浄光明寺に命じて,忠良を止め,諭すようにさせました。

12月23日,伊東義祐の家臣・河崎駿河は軍を率いて引き去りました。同じく伊東義祐の家臣・河崎紀伊は,志布志において高城を奪って侍り守れと言われていたのに,それができず,功無くしてどんな罪に問われるだろうかと恐れ,波見村において伊東義祐の命を待つことにしました。
12月25日,近衛前久が出水に至り,専修寺に泊まりました。27日,肝付兼護は竹田山城入道笑我を遣わし,義久に「前日の朝に軍を率いて,来たるべき時に備えて既に軍を戒めていたところ,たまたま,伊東軍が攻め込んでくると聞いたので,それを止めました。」と言いました。

天正4年(1576)春3月29日,近衛前久が,鹿児島に至り,宝持院に泊まりました。夏4月9日,前久は犬追物を観戦し,12日にもまた犬追物を観戦しました。歳久の求めに応じ,前久は即座に和歌を詠みました。前久は鹿児島に留まること数ヶ月に及び,義久はその間,和歌及び連歌の会などを催し,前久を歓待しました。
足利義昭は,紀伊より明石へ赴き,宇喜多氏と謀って京都への復帰を計画しましたが,うまくいきませんでした。今度は備後の鞆に赴き,毛利輝元と京都復帰計画を謀ろうとし,毛利輝元はこれを受け入れました。
6月21日,義久は前久に古今伝授を成就してもらいました。6月26日,近衛前久は鹿児島を発ち,義久は茶入れや茶壺,沈香などを贈りました。この頃,伊東勘解由が高原城を拠点にしました。
秋8月16日,義久は高原城の伊東氏の征伐に向かいました。18日,飯野城に至り,義弘と合流しました。義久は鹿児島・谷山・日置・永吉・宮里・長浜・曽於郡・喜入・蒲生・北村・東俣・郡山・帖佐・山田・川上・向島・田布施・伊作の兵を率いていました。義弘は,真幸院・牛屎院・太良院・桑原郡・囎唹郡(そおぐん)・大隅郡・薩摩郡・加治木・新城・大隅吉田・肝付・荘内の兵を率いていました。家久・忠長は,串木野・鹿籠・東郷・入來院・下之城・鶴田・長野・山崎・境田・藺牟田・大村・知覧・市来・伊集院・神殿・吉利・頴娃・川辺・山田・阿多・加世田の兵を率いていました。
19日,鶏が鳴く頃,義久は飯野軍を高原耳附尾に向けて出発させ,高原城の水を汲む道を絶つように侵攻し,高原城中を困らせました。その日の夜,義久は霧島山の麓の花堂村に軍を移しました。義弘・征久・歳久・忠長・家久以下が,廣野に楯を連ねて,鉾を前面に立てて,敵兵が来るのを待っていましたが,敵兵は来ず,無事でした。
20日,伊東軍は,高原城を救おうと,猿瀬に至りましたが,あえて進みませんでした。21日には,義久は家久・忠長を遣わし,鎮守尾に駐屯させました。伊東勘解由は伊集院美作守久宣・本田親治・上井覚兼を通じて,日多木河内守を遣わし,家久と忠長に講和を求めて来ました。曰く,「水路の往復の道を閉ざされ,今や飢えと渇きを止めたいと欲している。体は倦み力を失い,城を警護の術もない。人質の交換・城の献上を以て講和したい。」と言い,家久と忠長は即座に親治・覚兼を遣わし,家老・喜入季久に,白坂で講和したいと請い,季久はこれを許しました。島津方は本田親治と徳持舎人助を,伊東方は落合豊前守と日多木河内守を,それぞれ人質として交換しました。
23日,伊東勘解由は城を献上して去り,その人質をお互い返しました。義久は高原城に入城し,これをもって高原・高崎・三山・内木場・岩牟禮・須木・須師原・奈﨑共8カ所が,義久の領地となりました。義弘・征久・歳久・家久・北郷時久・忠長らの軍功のおかげです。義久は,鎌田政年に三山を守らせ,宮原景種に須木を守らせることとしました。
伊東氏征伐

8月下旬から9月初めまで,義弘以下の諸将が,高原城戦の勝利を祝い,相良氏や天草氏らが,太刀や書・腹巻などを義久に献じました。義弘は,義久から三山を賜りました。9月6日,肝付兼護が義久に謁見に来て,義久は飯野で会いました。10日,義久は鹿児島に帰還し,上原尚近を高原の地頭としました。
冬10月1日,肝付兼護は薬丸孤雲・新納永看・肝付兵部等を遣わして,南郷を攻撃させました。南郷は伊東氏の村です。8月の高原城攻めの時に,肝付氏は兵300余人を率いて義弘の軍に従軍していましたが,諸将が同じく高原城を攻める時に,肝付軍は見てるだけで戦うことをしなかったので,他の陣がこれを疑い,肝付氏はなお伊東氏に与しているとの巷説が起こりました。ここにおいて,この10月の南郷攻めは,肝付の兵をして伊東氏を征伐し,己が忠節を世に証そうとしてのことでした。しかし勝てず,肝付氏麾下の者は300余人が戦死しました。島津氏の老中は,もし伊東氏が肝付氏を破って櫛間・志布志を取れば,則ち大事になるだろうとして,10日,老中喜入季久・伊集院忠棟と島津征久・鎌田出雲守政近と共に櫛間・志布志を守りました。これゆえ,二村はついに義久の下に入りました。肝付氏は衰え,所領の諸村は往々で肝付氏に逆らうようになりました。
北郷時久は元亀四年(=天正元年)(1573)に住吉原で肝付軍を破っていました。義久曰く,「肝付氏に完全勝利するのを待て。その後,貴殿に志布志をもって褒賞としよう。」と言っていました。ここに至り,まさに今,この天正4年の10月に肝付氏本家はついに義久に降属して,彼らの所領は悉く義久の御領になりました。ここにおいて義久は,兼ねてからの約束に任せて,時久に志布志を与えようとしていましたが,伊集院忠棟が不可だと待ったをかけました。そこで,恒吉・永吉・内之浦180町の地を時久に与えました
11月18日,義久は大隅に赴き,新城・鹿屋・串良・大崎を行き巡り,志布志に至って数日留まりました。諸村の地頭を注意して観察し,櫛間に赴き,12月21日に鹿児島に帰りました。

伊東氏攻め二

天正5年(1577)冬11月,義久は犬追物を二日実施しました。
伊東義祐は,福永丹波守を野尻の地頭として新城を守らせていました。野尻の城は元より伊東の要害でした。丹波守は義祐に怨みを持っており,高原の地頭・上原尚近は,これを聞いて丹波守に内応を持ちかけ誘いました。義祐は丹波守が二心を抱くであろうと思い,その子藤十郎を人質にしていました。丹波守はこの状況に悩み,どうするかためらって決心がつきませんでした。上原尚近は反間(スパイ)の手紙を丹波守に与え,伊東大炊大夫がこれを得て,義祐に示しました。義祐は「丹波守が私に謀反を起こした。」と言い,群下の者を集めてこれを誅しようと謀りましたが,野村某が丹波守を預かりました。元々,野村某は丹波守同様伊東からの離反を謀っていたので,夜に人を使わして丹波守に「伊東義祐殿が貴殿を誅しようとしていますよ。」と知らせたのです。
12月7日,丹波守は四位若狭を遣わし,「今夜を以てまさに城を献上します」と,上原尚近に告げました。たまたま尚近は曽於郡に赴いており,いまだ帰っていなかったので,朝倉某らが飯野諸城にその旨を告げました。竹内備前が鉾兵60余人を先に率いて新城に入り,丹波守はそれを迎えて労りました。本城軍の兵・山下彌右衛門・黒木宮内左衛門は,島津氏に元々内応していましたが,いまだそれに応える成果を出してはいなかったので,竹内備前がこれを責めると,二者は開門して城を島津方に納めました。
義弘が飯野城より至ると,伊東の守兵300余人は城を捨て逃げ,ついに義弘は野尻を獲りました。8日,戸崎城に進攻すると,城の守将の漆野豊前は逃げ去り,紙屋の地頭・米良越後守は,島津軍を迎えて降伏しました。その日,義久は国分にいたので,義弘が使者を至らしめて言うには「すでに野尻・紙屋は下り,その余りの諸村も我らが島津軍を迎えて服属しました。」とのことでした。9日,義久は八幡宮に謁し,義弘は富田城に進攻しました。城の守将の湯池出雲守は島津軍を迎えて降伏しました。12日,義久は高原に赴きました。義弘は勝ちに乗って,破竹の如き勢いで進み,伊東義祐は大友氏を頼って豊後に逃げました。

伊東義祐逃亡

ここにおいて島津氏はついに日向の地を取り,樺山忠知に佐土原を守らせました。16日,相良義陽は普門寺を遣わし,腹巻を献じ,以て日州戦の勝利を祝いました。義久は都於郡(とのこおり)に赴き,19日に福永丹波守に刀を授けました。24日,日州日知屋の地頭某・門河の地頭某・塩見の地頭某が,ことごとく皆,城を以て降伏しました。豊後佐伯入道宗天が,この3人に書を遣わして曰く,「佐土原の主(伊東義祐)が逃亡したといえども,三城は尚健在である。卿らは(伊東氏を助ける)努力をするべきである。私はまさに豊後の兵を以て伊東氏を相助けようとしている。」とのことでしたが,3人はこれに答えず,その書を義久に献じました。
26日,高城の地頭・野村源吾ら10人が,島津軍を迎え,降伏しました。
伊東氏が日向から逃げ出したことにより,島津氏はついに,一族の悲願・三州統一を果たしました。

三州統一

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図

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