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更新日:2018年6月21日

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8島津四兄弟の九州統一王手まで

先の天正5年12月,ついに島津氏は伊東氏を日州から追い出し,薩摩・大隅・日向の三州統一を果たしました。
明けて天正6年春正月から2月にかけて,たくさんの武将が「日州戦勝利おめでとうございます」と義久にあいさつに来ました。縣領主土持右馬頭親成・肥前長崎宇久左衛門大夫純幸・天草氏・山毛地頭米良彌次・日地屋地頭福永新十郎・門河地頭某・塩見地頭某・志岐兵部入道・肥州栖本下野守などが義久に謁見し,戦勝祝いの書や太刀や鎧などを献上しました。
伊東氏追討の功労者・福永丹波守に,義久は野尻の地を許し,左券(約束証書のようなもの)をもって花押書を与えようとしましたが,福永丹波守はこれを辞退しました。義久はこれを強くすすめましたが,丹波守は固く辞退して受けませんでした。
義久は島津朝久に宮崎三百町を授けました。また,縣領主土持親成に日州石塚等百余町を与え,土持榮続に御手洗村十町を与えました。
2月朔日,土持榮続は甲冑を義久に献上し,もってこの領地を拝領しました。
9日,本田親成と上原尚近をもって飫肥のあつかい(外城制の上位責任者)としました。
14日,義久は日州清水名五町の地をもって,鞍馬寺領とし,寄進状で子孫の福禄を祈りました。山田新助有信をもって高城地頭とし,川上三河守忠智を財部地頭としました。

さて,この天正6年には島津氏と大友氏の戦い「耳川の戦い」が始まります。
3月3日,伊東氏の家臣長倉勘解由左衛門が,散らばっていた兵を集めて,数百人を得,日州石城に拠点を置きました。16日に義久は都於郡(とのこおり・宮崎県西都市)を出発し,18日に鹿児島に帰りました。三城(日州日知屋・門河・塩見)の地頭は島津氏に反乱を起こし,縣を攻めたので,縣領主・土持氏は都於郡において島津氏に急を告げました。
夏4月,大友宗麟は,軍隊を指揮して縣を襲い,土持親成は豊後に逃げましたが豊後で戦死しました。その子弾正忠は長門に逃げました。
秋,大友宗麟は縣に駐屯しました。7月6日,島津忠長と伊集院忠棟が石城を攻めるべく,川を渡って進み,佐土原に駐屯しました。この時伊集院肥前守久信と山田有信に戦功がありました。20日,義久は北郷時久に盟書を与えました。

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8月3日,義久は北郷忠虎(時久の次男。跡取りです)に盟書を与えました。毛利輝元と吉川駿河守元春・小早川左衛門佐隆景が謀って,室町幕府を納めようとして,五戒坊を遣わして義久に助けを求めました。
9月11日,室町幕府は五戒坊に託した内書で,義久に「毛利輝元らと恢復(かいふく・一度失ったものを取り戻すことです。)を図るので,諸国の兵は応じるように。」と告げました。
義久がただ恐れたのは,大友氏が自分の後方から攻撃してくることだけでした。義久は,まず,明くる年の春に防長(周防と長門。つまり毛利氏のことです。)の兵を遣わして,豊筑(現在の北九州市です。)を征伐してほしいと考えました。そして願わくば君(将軍)がこれを助けて欲しいと,その後輝元・元春・隆景に加勢すると考えていました。
一色昭秀・眞木島昭光・小早川隆景・吉川元春からも義久・伊集院忠棟・喜入季久に同じような書が来ました。外堀から念押しをしている感じがあります。
幕府の方はさておき,義久は石城攻めのため,日州におもむき,13日に野尻に着きました。17日,義久は従弟・島津征久を大将として,伊集院忠棟・平田美濃守光宗・上井覚兼を副将として遣わし,石城を再び攻めさせました。忠棟は大木を伐採して橋梁となし,諸軍は昼夜かけて並び進み,石城の周りを取り囲んで攻めました。
19日,義弘が飯野より来て,野尻で義久に会いました。
石城は島津軍に十余日取り囲まれ,糧食はすでに尽き,水を汲みに行く道もまた絶たれ,9月晦日には,石城城主・長倉勘解由左衛門が,城を棄て,去りたいと請うてきました。
島津軍は石城に酒食を与えましたが,勘解由左衛門は豊後に逃げました。
冬10月4日,義久は野尻を発ち飯野に至り,そこに5日留まって,鹿児島に帰りました。
大友宗麟は,伊東義祐を佐土原に入れようとして,先に兵10万を高城攻めに遣わしました。高城の地頭山田有信と島津家久・吉利忠澄・鎌田政近・比志島紀伊守国貞らと,1千余人の軍を合わせて,城を閉じて固く守りました。
大友軍は,高城の水汲み道を絶ったので,城中が苦しみ悩みましたが,たちまち古垣の隠者が湧泉を見つけました。その泉はこんこんと尽きることはありませんでした。
また,大友軍は伊東氏の旧村を一巡りし,彼らに薩摩方への叛乱を起こさせました。
23日,日州三納(みのう・宮崎県西都市)の人々が島津氏に叛き,夜に砦の柵を壊し,地頭・伊地知式部太輔及び,その麾下の者数人を殺害しました。
又,三納の賊徒らは,平野城を陥落させ,八代・本荘・綾等の所を焼き尽くしました。24日,三納の賊徒らは,都於郡を攻めましたが,島津方の守将が兵を出しこれを撃ち,賊徒らは敗走しました。島津方はこれを追い,川原田道場光大寺に至り,敗走兵を500余人殺害しました。
25日,義久は高城を救うため,高津浜より船に乗り浜市へ赴きました。ちょうどその時,「23日に三納が叛乱を起こした」という報告がきて,船中が動揺しましたが,次の報告で「三納の反乱はもうおさまった」とのことでしたので,軍中はすなわち安らかでありました。義久は霧島社において戦勝祈願をしました。
27日,島津軍は紙屋に至り,まずは伊集院忠棟・上井覚兼を,佐土原を守らせるべく遣わしました。
11月1日,義久は佐土原に到着し,数十万衆の軍が城下に泊まり,宿舎が収容不能で,露地に泊まる者もいました。4日,義久は再び霧島社で戦勝祈願をして曰く,法華経一万部をもって高城一村のお賽銭とするとのことでした。この高城での戦いが通称「耳川の戦い」と呼ばれることとなります。

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9日,義弘と征久・伊集院忠棟・上井覚兼らが進み財部に至り,4000兵を分けて三方に伏せさせました。釣り野伏の準備です。
11日,島津軍は先に軽卒兵を戦いに遣わし挑ませ,大友軍がこれを追ってきました。そこで伏兵が並び身を興し,これを大いに破りました。
義久は佐土原より根白坂に至りそこに駐屯しました。夜,火矢を放って大友軍を射たので,大友軍は驚き騒ぎました。
12日の明け方,大友軍が攻撃してきて,本田親治・北郷蔵人久盛らを殺害し,勝ちに乗って来ました。義弘は兵を統率してこれを待ちました。島津軍の諸将は50,000人をもって横からこれを攻撃しました。義久は50,000人を率いて根白坂を下って大友軍を激しく撃ちました。
家久と,高城地頭・山田有信は城の中より出て,兵を率いて応接して戦い,敵軍を大いに破りました。耳川に至るまで追い,そして帰還しました。義久は紙屋の宿で,夢の中で「たつたのかわのもみち(もみじ)かな」という句を得ます。曰く義久は覚醒してから,不思議な瑞相だと思って,「5文字足りないではないか。」と思い,これを補って曰く,「打つ敵は立田の川の紅葉かな」としました。このことを一門の人々に言うと,「誠にこの戦い,勝利は疑いありません。」と喜びました。
これに至り大友軍は敗走し,川に落水し死者は無数に上がり,波に漂う葉のごとく粉々になりました。義久の夢のとおりになったのです。
13日,義久は島津征久以下の諸将を遣わし,耳川を渡らせ,日知屋・塩見・門河・山毛・坪屋・田代等の地を略取しました。義久は北郷忠虎に盟書を与えました。
高城の役(耳川の戦い)では,義弘及び家久が,功績の多数を占めていました。義久は義弘及び家久に書を与えもってその功績を褒め,嘉しました。また,家久を佐土原の領主としました。
大友宗麟は秋より冬にわたって縣に駐屯し,高城(耳川)の敗北に及んで軍を中止させて去りました。縣の人々は,島津方より役人を出して欲しいと請うてきたので,島津方は縣を守る兵を派遣しました。そしてついに,元の縣の領主・土持親成の息子・土持弾正忠を,長門から召し(弾正忠の父・土持親成が大友宗麟に敗れた時に弾正忠は長門に逃げていました。),縣に居住させました。29日,義久は鹿児島に帰還しました。「耳川の戦い」の終了です。(上記都度の数字は,鹿児島県史を追ったものです。実際の兵力差は島津氏2万対大友氏4万程度だったと言われています。)

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12月1日,五戒坊が鹿児島に到着しました。10日,義久は一色昭秀・眞木島昭光に書を与えて曰く,「幕府より毛利輝元殿が僧を来させて,かたじけなくも御内書を賜りました。大友氏を征伐したので,謹んで命をお聞きします。当に龍造寺とこれを謀ろうとしていました。そもそも前日に,大友氏と日州において戦い,50,000余人を討ちました。豊筑の軍士たちは気力を奪われ,肝を落としました。再び力を振るうことはできないでしょう。考えすぎと思われませんように。」とのことでした。幕府に対しての,「島津氏はここまで九州での勢力を増したんだぞ。」というアピールでしょう。
また再び毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に,一色達に渡したのと同じままの書を送りました。

天正7年,春,天草城主天草尾張守入道紹白より,新納忠元あててに「先祖代々,大岳様(島津忠国=大岳玄誉)の御時から,お隣としてよしみを結び申し上げること一筋であります。実は,出水の島津義虎と私天草は不和でございます。島津義虎と和平致したいのです。」と手紙で依頼がありました。新納忠元は般若寺を使僧として並べ,出水に罷り越し,出水(島津義虎)と天草を和平させました。
和平に先立って,島津義虎へは「天草入道紹白・志岐弾正忠入道麟泉・上津浦上総介鎮貞・栖本上野介・大矢野某までの,天草五人衆と相い唱えられる城主たちを出水へ招き寄せ,5人とも皆に,『島津家へ御奉公致すべき』旨を忠元より篤く申し諭し,降伏させますから,和平に同意してください。これが肥後国の御領の安定のためになるのです。」と申し含めておきました。

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その時分,大友宗麟の行状が宜しからぬとして,その旗下の者たちは段々と心を変えるものが出てきていると聴こえてきていました。
将軍義昭公より,大友退治についての話題もありましたが,義久は肥後路の問題に差し支えるので,新納忠元や鎌田寛栖と相談して,聞き置くことにしました。

同年4月,近衛前久から喜入季久に手紙が来ました。
「長くお手紙も出せずにいましたが,それにしても日州での戦いのことは存分に聞いております。いや重ね重ね,大勝利喜ばしいことです。すなわち使者を差し向けて,ご祝儀を送らねばならなかったのですが,地相の結果が良くなくて,思うようにならず残念です。
お取り成しをお頼みしたいことがあるのです。織田信長様は義久様と一段と仲良くなりたいと強く願っておられます。義久様は鷹を多数お持ちというのは有名ですが,信長様は鷹をご所望です。鷹匠へお願いをお取り成しいただければ本望です。その際は私にも一羽いただければ嬉しく思います。義虎殿がこちらにお越しの時に,こちらへ届けていただけるよう,内々に申し遣わします。手はずをお願いします。1日も早くしてくれることを望みます。」
同年6月,細川幽斎から義久あてに手紙が届きます。細川幽斎を通じて今度は将軍足利義昭が鷹を求めてきました。
「日向巣の鷹をご所望の旨の将軍御内書と,小袖をお預かりしてます。公方様の意を汲んで申し上げますが,とても名誉なことです。いや重々ご承知のことでしょうが,この旨を受けるべきですと謹んで申し上げます。」
8月,伊勢因幡守経由で,信長から義久に手紙が来ました。
「いまだお付き合いがないと言えども,申し上げます。大友氏との戦いが続いているようですが,それはするべきではありません。和解するべきです。
近年,本願寺が無礼な行いをしていたので,誅罰の儀を申し付けましたが,大阪に逃げ散り,赦免の令をひたすら望んでいます。紀州雑賀衆も退き,畿内は静謐となり恥じるところのない状態になりました。来年は芸州に戦いに行きます。その時はぜひ密にご助力ください。天下に大忠をなすべきです。なお,近衛殿にも言ってあります。これにて筆を置きますことを謹んで申し上げます。」
つまり,信長にとっては,鷹のことは本題ではなく会話のきっかけ程度のもので,本題は島津氏と大友氏を和睦させることにあったのです。細川幽斎を通じて鷹を求めてきた将軍足利義昭も同様です。それがわかっていた義久は,上方の勢力争いに巻き込まれることも,大友氏との間に口出しされることも望まなかったので,しばらく静観の構えをみせました。
しかし近衛前久は鷹の方が目的だったようで,その後も何度か義久・義弘に鷹を所望する手紙を出しています。

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相良義陽は,大友氏が耳川の戦いの時に日州に侵攻している間に,島津氏の隙をついて自分が大口城を取りたいと計画していました。
しかし新納忠元の守る大口城は守りが堅く,相良義陽の大口城奪取は叶いませんでした。
再び日向州は平安になりました。今近隣はことごとく義久の旗下に下り,ただ相良義陽と阿蘇惟前のみが表裏があるところです。相良氏側はまさに宝川の内に砦を築いて,警護を堅く固めて,島津氏を襲おうとしていましたが,義久は,新納忠元に対処させ,相良氏を追い払いました。
天正8年6月,これより以前,肥後熊本城主・城越前守親賢が,肥後国飽田・託摩・河尻辺までを掠め取ろうとしたところ,大友宗麟が軍衆を熊本に遣わし,海陸を取り塞がれ熊本は難儀なことになったので,義久に加勢を頼み,義久は新納忠元に対処させました。
義久は6月中旬,熊本城の守り番手として佐多常陸守久政・川上三河守忠智・上原長門守尚近・宮原左近将監を差し遣わしました。
同年11月23日,義久は佐多常陸守久政を将となして,新納忠元・新納忠堯・川上三河守忠智・肝付弾正忠兼・上原長門守尚近・比志島紀伊守国貞らをおさめて大軍を率いて,奥肥後の合志城を攻めさせました。なかなか苦戦しましたがなんとか勝ち,合志軍は島津氏の旗下に下りました。合志方の死者は130余人となりました。島津軍は,奥肥後から熊本に帰り,12月13日には薩摩に帰りました。

天正9年6月,義久は信長との仲介の伊勢因幡守へ手紙を出しています。
曰く「信長様からかたじけなくも御朱印を拝領しましたが,遠方ゆえいまだご返礼を申し上げていませんでしたが,まことに本心では早く返礼せねばと思っておりました。
そもそも豊後と薩摩の仲裁の件について,信長様がつぶさに仰せいだされ,こちらは愚痴や鬱々も多々あると言えども,自らを捨て,ご尊意に応じようと思います。
今後の盟約の儀をしたいと思います。隣国へ御出馬の催しがある時に,相当のもてなしを奉じます。太刀一腰(長光),馬一匹を進上します。
御家門様(近衛家)の御前に従い,信長様へお目もじを調停していただくよう,謹んで申し上げます。」

 

さて,義久が旧臣に言うには,「相良義陽と島津氏とは水と油だ。彼は我々と敵対して数年経つ。まず,北原氏追討の時,我が軍に矢を射かけてきた。また,菱刈氏との戦争の時,菱刈氏に加勢した。この挑戦から3年後,和解した。然るに大友氏が日向に侵攻した時,菱刈氏と一緒に真幸院の境界を乱していた。その罪は莫大である。
私は今義陽の領地・肥後州の八代を攻撃したいと思っているがいかがか。」
諸臣曰く,「今までも義久様の領地を侵され,皆,誅することを我慢できないと思っていました。今義久様の命があるなら,ここにおいて薩摩大隅日向三州の軍を急き立てて集めましょう。」と言いました。
天正9年8月17日,相良氏攻め(水俣城戦)の開始です。相良義陽は肥後州八代・芦北・球磨三郡の主で,島津氏の数年来の仇敵です。義久は島津薩州家義虎を大将として,北郷氏・喜入季久・上原尚近らを副将として,芦北に進み井川比良に陣を結びました。
ちょうどこの時,義虎の旗下の切通主馬・島津出羽が歩兵を率いて水俣城下を進むと,敵兵はたちまち城門を出て,厳しく防戦しました。出水(義虎)の兵は前進できず,前川の渡しで退き去ると,すなわち敵兵が競い進み,両輩の兵を殺害しました。この時,義久の兵がその場に馳せ至り,負傷兵を連れて,島津方の陣中へ入りました。
同月18日,義久は大軍を率いて大口へ発ち,小川内に至り,陣柵を設置しました。義久に従って伊集院忠棟もこの地にいました。
諸将は翌日庚戌に芦北に到着し,八景之尾に本営を築きました。銭亀尾の地に一陣を構え,義弘・歳久・家久を守将とし,50箇所の軍衆を率いさせました。
又障りなく往きて還れることを欲して,熊牟礼に一陣を構え,島津征久・川上上野介隅久・新納忠元を守将とし,30箇所の軍衆を率いさせました。攻撃は甚だ厳しいものとなりました。
義久は小川内の多久美尾に登り,芦北を臨み諸下知を下しました。ようやく水俣城の傍に迫り,軽石尾の地に近陣を築き,樺山氏・加治木氏・頴娃氏を守将とし,20箇所の兵を率いさせました。かつ,また,間垣を二重に結びました。日夜攻撃は更に止まる時はありませんでした。
同月20日,義久はまた小川内を去り,芦北に至り,義虎の守っている井川比良の陣に入りました。この間にある一将が,一句書いて矢に結び,城の裏に射て贈りました。
曰く,「秋風にみなまた落つる木の葉かな」
受けた義陽の兵は,次の句として
「よせてはしずむうら波の月」
島津方の兵が憤って一句歌って曰く,
「真砂地を鳴たつかりの嶺越えて」
島津方の兵は皆言いました。「奴らは沈み,我々は浮かぶ」戦っている兵らは甚だ急いで戦いました。昼となく夜となく戦い,鬨の声・矢叫(矢を当てた時に射手があげる声のこと)・鉄砲の音が響き,相良方は雷電のように崩れ,天地は鬼神も驚くほど震動しました。
八代の兵,蓑田信濃守・高橋駿河守・宮之原縫殿助らが水俣城の裏に助けに来ましたが,食料にも困窮している有様でした。
ここにおいて,義陽と相良家旧老臣たちはともに話し合い,投降を義久に請うことにしました。水俣・津奈木・佐敷・湯浦の四城を献上して講和したいと請いましたが,義久は受け入れませんでした。相良義陽は再度請うて,芦北・七浦からも去るし,かつ息子兄弟二人を人質として献ずると言いました。これゆえ,義久は老臣らに「私は相良義陽の要求に応じて停戦し,人質を取って取り囲みを解除しようと思う」と言いました。

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この頃,肝付兼続の正室で日新斎の長女・島津御南が他界しました。71歳でした。
9月20日,義久は比志島宮内少輔国貞を遣わして,水俣城で相良氏からの人質を受けました。その後,城の包囲を解除して,700余人の兵は引き上げました。
9月26日,義陽は佐敷に来て,義久に津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田の諸城を献上しました。
義久に対面して言うには,「この度の私の重い罪を許してくださった寛容をありがたく思っています。」かつ言うには「私の息子兄弟二人が人質としてこちらに来ておりますが,大隅桜島に放置されています。その後息子たちは桜島での暮らしが困窮しておりますのでなんとかしていただけませんか。」義久はその訴えを容れて,兄弟に『桜島を去って鹿児島に来なさい』と命じました。
ここにおいて,義陽はその嫡男の元服の件で,島津家の諱の字を付けたいと請いました。義久は承諾して,すなわち四郎太郎を称して「忠房」とすることとしました。そののちに,この兄弟は共に球磨に送られ,人質扱いは解除されました。義陽は義久の浅からぬ心配りに感銘を受け,後日その厚い恩に謝意を示し報いると言って,「私はいまだ島津氏に帰属しない悪漢・阿蘇氏に向かい戦ってきます。義久公に心服している実をあらわすために,願わくばそれを見届ける将を賜りたく思います。」義久はその言葉を受け入れ,その求めに応じました。

同年12月2日,相良義陽は軍を率いて旅をし,阿蘇氏の領地である甲佐・堅志田・御船・隈荘を行き,岩下町を破壊しました。敵の首を斬った者は少なく,川の上流下流左右,ことごとく放火して去り,軍を退こうとした時,御船城主の甲斐宗運(阿蘇家家臣)は相良義陽の逆心を知ると,(相良義陽と甲斐宗運は盟友でした。)これに嘆いて曰く,「相良義陽はたちまち島津の旗下に属して,阿蘇氏の敵となった。旧恩に盾と鉾で報いるような行動だ。力を尽くして義陽の首を斬ってやる。私の心は奮い立っている。」と言いました。
義陽は響原に駐屯していました。宗運は大勢の兵を指揮して原野の陰に精鋭の兵を潜ませ義陽の後方を遮り,前後より多勢をもって競うように義陽を攻めました。
義陽は兵術を尽くしましたが,防戦も長くは持たず,義陽は戦死しました。(義陽は盟友・宗運に対して,わざと負けたと言われています。)

これゆえ,相良氏の領地である球磨・八代では入り乱れての大混乱で,相良家は風前の灯のごとくでした。相良氏は島津氏に救兵を請いました。義久は,新納忠元を,大口・羽月・平泉・山野・曽木・本城・馬越の騎兵たちを率いた将として派遣しました。忠元の軍は八代に馳せ,八代城及び高田等の外城を堅く守りました。
義久は,12月12日に相良義陽の嫡男・相良忠房に手紙を書いています。
「貴殿の父・義陽殿は,完全に納得の上で私の配下となることを望んだ。
その真心ゆえに,このたびかつての盟友甲斐宗運のいる阿蘇家のために身を粉にした。そればかりか名誉の戦死を遂げられた。まことに感嘆に堪えない。
この忠義を永くつとめて,島津家と相良家,互いに心変わりすることないようにしよう。」

天正10年正月,義久は相良四郎太郎忠房に球磨一郡の領有と,相良氏の家督を継がせることを許しました。この時相良忠房は数えで11歳でした。相良氏のその他の旧領はことごとく義弘に与えられました。(八代城・関城・高塚城・樋脇城等。)この頃から,八代をはじめとする肥後領については,義久の代わりに義弘が司ることが多くなりました。

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天正10年6月,明智光秀が本能寺で主君・織田信長を弑しました。そして13日に,羽柴秀吉が伏兵として光秀を小栗栖で殺害し,主君の仇をうちました。
近衛前久から義久に6月17日に手紙が出されました。「お手紙拝見しました。天下の様子は,隠すこともできない状況なのは是非に及ばず,私のことはこれ以後蟄居の身となります。自然に,義久殿に頼り入ることになりそうです。若鷹のことは,蟄居中の間はご無用であります。
次は沈香百両のおこころざしの儀を嬉しく思います。なお,追って申すべくこと,謹んで申し上げます。」

7月,義久は大友宗麟に手紙を出しています。「去年,京都の方の仲立ちで,薩摩豊後両国の和睦の儀が成りました。そのことを厭わずに和睦をやめずにいてくださって,今とても喜んでおります。和睦継続のお祝いに,鎧の下着を頂きご親切の至り,早速お礼をするべきところでしたが,心ならずも遅れてしまいました。和睦の儀,心変わりすることないことを心から願い,太刀一腰・馬一疋を進呈します。」

一応大友宗麟とは講和が成立したところですが,この後島津氏の敵として舞台に登場するのは龍造寺隆信です。
すでに義久に帰属していた,筑後州の士・田尻中務大輔鑑種(あきたね)と肥前州高木郡有馬修理大輔鎭貴(しげたか)(=有馬晴信)らが,それぞれ龍造寺山城守隆信のせいで逼迫しており,薩摩に援護兵を請うてきました。義久はその窮困を聞くに忍びなく,有馬への援軍を許しました。
天正10年11月20日,川上上野守久信を軍の大将とし,徳淵より船に乗り,有馬氏のもとへ渡りました。
11月22日,三船甲斐宗運が使節を遣わして和平を請いました。甲斐宗運は和平を請う側なのに,なぜか強気で「網田・郡浦・甲斐頭・小川等の神領をことごとく返したまえ。そうすれば和平を為してもよろしい。」と言ってきました。その後いろいろやりとりがありましたが,12月に一応甲斐宗運と和睦しました。
11月25日,田尻氏の使いが敵地から忍んで八代に至り,「龍造寺隆信が軍を率いて来て,我らの城外に10箇所陣を築きました。ぜひ我らの城を救う援軍の軍艦を強くお願いします。」と義久に伝えました。
義久は弟の義弘・家久が八代にいるので,この言を聞かせ,諸将と協議し,まず精鋭の軽装兵を田尻の地に遣わし,状況の難易度を窺い見させ,しかるのちに軍船を発たせました。義弘の旗下には左京房・荒武某がおり,小舟に棹差し,田尻の城に赴きました。
11月29日,左京坊・荒武某は田尻から帰ってきて,彼の地の図絵を提出して曰く,
「龍造寺隆信は9箇所に陣を敷き,しかして城中の兵士はまだ困窮に及ばず,兵粮もほぼ来年の秋までもち,兵器もまた5・6ヶ年は尽きることなく,困ることもないでしょう。隆信及び鍋島氏はこちらを攻めず,最近帰陣しました。思うに,有馬氏領地の国境に警備を設置する策を謀る必要があります。うんぬん」と言いました。田尻氏は,左京坊・荒武某の両方に刀を与えました。

天正11年正月,龍造寺氏を倒し肥筑を征服するのには,まだ計画に粗があるため,島津方は八代より各自の本拠地へ帰りました。

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3月11日,八代の家老及び老臣らが評議をし,その評議の条目は,
「秋月殿が申されること,八代の繰替のこと,田尻殿の救援に兵船を出したこと,大矢野殿の進退のこと,御出勢の遅延のこと」でした。
義弘がこの条目の件を聞いて曰く,「秋月氏が言う所とは,龍造寺氏との和平のことである。田尻より肥後は現在領地に障りはない。則ち和平は可能である。八代の繰替は真幸院の田数の倍にならないように。居を移すことは出来ない。田尻への兵船出兵は火急のものだった。他方への出軍は次の秋を待て。その後ならよろしい。大矢野氏は改易処分,彼の領地には警備の主を定める。追って命令を下す。」
5月20日,有馬氏の書簡が鹿児島に届きました。「去る6日に,深江・安徳の両城主が先の非を改め,我らが旗下に属すことを請うてきました。それを許し,兵を旗下に率いてその地に入りました。」しかし深江が約束を違えたので,有馬氏は追い詰められました。義久は6月2日に有馬を救いに発進しました。先に新納忠堯・川上忠堅を遣わし,騎兵をその地に向かわせましたが,新納忠堯は深江城での戦いで乱戦の上戦死し,これにより島津軍は安徳へ退きました。
8月下旬,義久は諸将に命じて曰く,弟家久と上井覚兼を,守将として有馬に行かせました。八代の管理者・平田美濃守がまた肥後州中の所領の軍衆を率いて,有馬に渡り,八代の警護のための策を謀りました。伊集院忠棟が24日に出立し,各自先に八代に行き,しかる後に時を見計らって有馬に渡るようにしていました。
9月17日,義久は30人の斥候を密かに堅志田城に向かわせましたが,侵入できませんでした。数日挑みましたが空虚な結果となり,惜しみながら,明朝撤退しました。諸将は軍を率いて小熊辺地を進み,村舎に放火しながらつつがなく退去しました。この時,村舎から逃げ去る者を8人斬首にしました。
9月27日,秋月氏が使いの僧を遣わして八代にいる義久の将らに通達をしました。中身は龍造寺との和平の仲立ちについてでした。その条目に曰く,「和平のこと,肥後のこと,有馬のことなど。かつ,大友氏とのことですが,大友氏は島津氏の旗下に共に降りたいと言っていますが,日州戦(耳川の合戦)での敗北について,その窺いしれないほどの執念をもって,憤りはいまだ止んでいません。信用してはいけません。龍造寺と秋月は,薩摩の旗下に属し,島津殿を九州鎮西守護として立て,各々仰せ従うべきところでございます。」
義久は,「肥後は龍造寺の望むとおりにさせよう。また,有馬の警護の兵は速やかに引き下がらせる。豊後州に出発して大友氏の巡らせているはかりごとを退治しよう。小さな利のために龍造寺と戦争して,兵たちの戦死を顧みないようでは,何の益になろうか。」と言いました。この時点では義久は,秋月氏の仲介も考慮して,龍造寺と和平するつもりでした。
10月1日,八代で,伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼らが,阿蘇領を欲して一戦を企てました。計画実行の前日にこれを聞いた上村肥前守がこれを義久に伝え,義久はそれを許可しませんでした。
「当家は代々,上下神祇に祈り,神仏の思し召しを推し量ってきた。
今,神敵となり,阿蘇領に向かって弓を引き矢を放って,いかにして神の助けを得られようか。だが甲斐宗運の陰謀は日増しに露見していて,然るにすなわちいずれは一戦に及ばないわけには行かない。
まず敵の首魁が約束を破ったことを明らかにさせて,しかして後にその逆徒を討つ。そうすれば勝利を得られないはずがない。かつ,我らが味方の有馬氏が再びの進軍を請うた件について,神霊によるくじ引きをした。神霊がこれを許したので,有馬をそのままにしておくのは神告に背くことだ。
阿蘇領に刃向かうことは,私の元々願うところではないが,もしすでにその道があらわれているなら,これを止めたいと思ってもできないことである。」

11

天正12年2月26日,熊本と宇都よりの書簡と新納忠元からの書,共に三通が鹿児島に持ち込まれました。手紙の封を開くと,その文に曰く「去る11日に,龍造寺山城守隆信が大軍をひきいて出国し,同13日には島津方の合志城に迫り,攻撃が止む時無しという状態です。」前年秋月氏は「龍造寺と秋月は薩摩の旗下に属し,島津殿を九州鎮西探題として立て,各々仰せに従います。」と言っていたのに,話が違います。
これゆえ義久は,翌月2日に薩摩大隅日向三州の軍を率いて,必ず合志氏の困窮を救いに向かうとしました。隆信がもし引いたら,則ち諸軍を率いて有馬に渡るつもりです。
沖田畷(おきたなわて)の戦いが始まります。
翌27日,義久は諸方へ使者を出して書状にて出陣のお触れを出しました。
3月9日,義久は薩摩大隅日向三州中の軍を率いて肥後州へ赴きました。16日,佐敷に着きました。19日,歳久が,翌20日に義弘が参陣し,義久に謁見しました。21日には相良忠房と弟長寿丸がきて,太刀と酒と漆器等を持参しました。
義久は弟家久を大将として,家久の子又七郎豊久・島津彰久(島津忠将の孫・島津以久の子)・義久の従弟島津忠長らを副将として,3000余騎(島津1500余騎,有馬1500余騎)を有馬に渡らせました。豊久は初陣であり,この時15歳でした。家久は有馬修理太夫と相共に計画し,まず有江に駐屯し,深江を過ぎ,安徳に入り,島原に進み陣を敷きました。
3月24日,隆信は島津方の軍が多くはないと聞いて,己の軍の多いのをたのみとし,恐るるに足らずとして,60000余騎の甲兵を率いていました。
大将家久は軍中に命じて曰く,「仮にも薩摩に生きて帰れるとわずかでも思うな,むしろ肥前で死ぬと思え。今そなたたちが私の言葉に反して,戦わないことを選べば,すなわち島津の未曾有の恥である。私の息子又七郎は,15歳の童子と言えども,勝負を決する勇気に努めている。もし再び故郷に帰れなければ,男子たるもの戦場に屍をさらすものである。すなわちそれが後世において誉となる。今日が決戦の日である。」と言いました。
諸将は皆,誰が今の命令に背くものかと言い,各々の旗下の兵士たちに家久の言を伝えました。もって軍衆は,死をもって限界となしたいという志で心を一つにしました。

12

川上上野守久信を兵の将として,相良氏と平田光宗が肥後州の兵を従え率いて,敵城・島原城に向かいました。矢が飛び交い,軍は消耗しました。敵兵は島津の陣に迫り,兵の刃が接戦しました。辰から午の時刻に,戦の状況は一進一退し,合戦の間互いに兵術の尽きることはありませんでした。この際,浜辺にいる敵兵が敵城を通ろうとしているところを,家久は逆瀬川奉膳兵衛尉・前田志摩守・四本主税助に以下100騎を許し,敵兵の横から突進させ,奉膳・志摩・主税をその衆兵の監督として戦わせました。敵兵は敗北し,奉膳と主税はその場で戦死し,惜しまれました。
しかして敵兵は島津軍を計略にはめようとして山方に赴きましたが,島津軍は乱れずに,隊列でその敵が挑む戦いに対抗しました。
鎌田出水守政近・二階堂帯刀長重が指揮をとり,新納駿河守・久永九郎左衛門尉が戦死し,上原彦五郎・宮原越中守・長谷場兵部少輔・竹内備前守が同じところで合戦して敵の首を獲りました。また,島津忠長・上原長門守・山田新介・稲富新介らが全員力を尽くして合戦しました。
じわじわ未の初刻まで戦って,龍造寺軍は体が倦み兵術も既に尽き,敗走しました。この時,川上忠堅が隆信の首を獲ろうとして,敗軍・龍造寺軍の中を馬で走り回り,左右を窺い見ていたところ,隆信が自分の状況を弁えずに,他の兵を高い声で叱責して曰く,「隆信はここにあり,隆信はここにあり。なぜ敗走しようとするのか。」と言っていました。
忠堅はこの言葉を聞いて隆信の所在を知り,喜んで,敵の首魁の首を絶対に獲ろうとしました。旗下の兵卒・簗瀬兵右衛門尉・萬膳仲兵衛尉・出石五郎兵衛尉がその場に馳せて来て,隆信の首を斬り,曽木権介がその首を確保しました。家久の息子又七郎豊久が強敵を一人斬り,彰久・忠長・久信・光宗・忠元・有信・政近・義朗等以下諸将が勝ちに乗って競うように戦い,太刀の音は山川を動かすほど響き,群衆の呼ぶ声は州郡を轟かすほどでした。
この勝敗がまだ決着してなかった時,一人,太刀で首を高く掲げてまっすぐ来る者がありました。家久の旗下まで進み来て曰く,「これを見よ,これを見よ。今日の勝利はただ我のみのものだ。」ついに家久の右手に進み,家久を急に刺そうとしました。龍造寺の手の者でした。家久はこの徴候が見えていたので,たちまち馬から踊り降りて敵の首を獲りました。軍衆はこれを見聞きして,予譲(中国春秋時代の人物です。)のような忠臣だと言いました。あとでその姓名を聞くと,江利口正右衛門といい,隆信の旗下の有名な勇士だったということです。(龍造寺四天王といわれる武将の一人でした。)
この日得た敵の首級は,3000余人でした。島津方の戦死者は,上原勘解由兵衛・蓑田杢左衛門・貴嶋刑部左衛門頼辰及び島津忠長の家臣らでした。
3月25日,八代より佐敷に報告の者が走り来て曰く,「昨日24日,隆信が大軍を率いて島原の陣に迫り,戦いを挑んで来ました。隆信の軍は敗れ,隆信以下数千の兵士を殺害しました,うんぬん。」義弘・歳久以下はことごとく喜悦の祝詞を述べ,義久もにこにこと喜び,武運を祝う盃酒をあげました。

13

3月26日,隆信の首が佐敷に持参され,その翌日27日,義久は斬首した人の首をことごとく首実検しました。義弘・歳久以下の諸将や歩兵はその場に蹲居(そんきょ)の体勢で警護していました。
4月14日,福昌寺の天海和尚率いる2000余人の僧徒に命じて,有馬に渡らせ,戦死者の霊を弔う大施餓鬼を行いました。この日,八代で家久の嫡男豊久が元服しました。
4月19日,義久は八代から忽然と引き上げ帰りました。沖田畷の戦い終了です。義弘・伊集院忠棟・平田光宗を八代に居させ,忠長・上井覚兼を有馬に居させて,本陣を敷かせました。
5月22日,秋月種実は使いを差し向けて曰く,「昨年諸将が八代にいた時に,私は薩摩と龍造寺の和平の仲立ちをしました。はからずも隆信はその約束を違えて島津に敵対しました。私欲で約束を違えて天命に背き,領土の兵士らは大半が死を免れ得ず,数里の田野に及んで屍が晒されました。この隆信の裏切りの企みについては,種実の知るところではありません。私を疑わないでください。」といってきました。
同日彦山座主からも義久に手紙が出されました。「龍造寺との和平の儀について,私と長年の付き合いがある秋月種実が強く望んでいます。織筋二反をお送りします。ねんごろにお願いします。」というものでした。
6月19日,義久は大日寺法印を御船に遣わしました。御船城主・甲斐宗運が和平を請うてきました。義久はその求めに応じてこれを許し,その報礼に太刀と馬を贈りました。
家久は平生歌道を嗜んでおり,岳父樺山善久入道玄佐を師とし,7月10日に古今伝授を受けました。
肥前・肥後・筑前・筑後の四州の中で,いまだに義久の旗下に属さないものが多くいました。義久はこれをことごとく攻め平定したいと思っていましたが,少し憂いがあって,出発できていませんでした。この年天正12年8月下旬,義久は弟義弘を元帥として薩摩大隅日向三州の軍衆を統べて肥後州に赴かせました。諸将らは9月1日,菱刈院馬越で評議を行い方向性を定めました。「龍造寺隆信亡き後,その嫡子龍造寺肥前守政家が秋月種実を頼り,薩摩との和睦を請うてきて,種実と一緒に起請文を送って来た。」「義久様の病がいまだ癒えないので,今度は殿の御出馬が叶わない。いずれ病が治り御出馬が可能になれば,義久様が兵術の限りを尽くしてくださる。」「故隆信の勢いが盛んだった時,我々は肥後の領地から去って講和した。今政家がようやく矢尽き弦が絶え,講和を請うて来て,肥後・筑後の領地から去ると言っている。受け入れよう。政家が謀略をして反逆したら定めて成敗すべし。」
9月10日,島津軍は八代を発ち熊本に向かいました。熊本城主・城入道一要の家に寄宿し,11日は老将らで評議して,豊後の陣のことや陣替えのことを評議しました。
9月13日には吉松において陣を敷きました。
23日,義弘が山北で一泊し,24日高瀬へ入りました。
25日,豊後衆(大友氏)は梁川近くに攻め寄り,坂東寺へ着陣しました。豊後衆の中の,戸次道雪(べっきどうせつ)・高橋紹運(たかはしじょううん)が2人の使者を島津氏側に送り,数カ条を申し付けました。その内容は,「豊州・薩州は一致して,意見の違いのないようにするべきです。龍造寺と和平を結んだと聞いておりますが,ぜひこのたび共に龍造寺を退治することが肝要です。」というものでした。
義弘は,「龍造寺政家はすでに島津氏に血判を進上して,早々に和平を結び,島津氏の幕下にいる。政家はこのたび肥後国を島津氏に献上し,肥後国の領地は残っていないほどだ。そんなことができるか。」と考えました。
27日,義弘は政家に「龍造寺が,今の状態で今後も異議がなければ,もちろんこちらも心変わりはない。起請文をもって返事とする。豊後(大友氏)との義絶は,京都の媒介で先年和睦がなされ,とかく難しい状況だが,併せて龍造寺・秋月の分別次第となる。龍造寺のことは見捨てない。」と返答しました。
10月1日,高瀬にいる時に,軍務の余力があったので,島津忠長と上井覚兼がともに金瘡医術(刀・槍・弓矢・鉄砲等による傷の治療専門外科術)を義弘から伝授してもらいました。
10月15日,龍造寺肥前守政家・秋月三郎種実・筑紫上野介廣門が和平を許してもらったお礼に,祝詞を述べに来ました。各使節は太刀・馬を進上しました。かつ,龍造寺政家と龍造寺家晴・鍋島飛騨守(鍋島直茂)が義弘に誓紙を献じました。

13

10月16日,宇佐八幡宮の社人らが義弘に封書を寄せました。開いて読むと,曰く「大友氏は日本の風俗に疎く,南蛮人の意味のわからない言葉に親しみ,異国の邪法を嗜んでいる。無道で暴虐なこと長く,破滅させられた神社仏閣は少なくない。まさに当社も破滅に及ぶところである。薩摩大隅日向の軍衆を率いて高瀬に陣を敷いている今,仏神のため,人民のため,義兵を挙げて悪逆の大友氏を退治してくださるよう伏して乞い願うところである。仏法神道はこの計画のために運を高められ勢いを増すであろう。当宮は戦場の守護神となり,勝利は疑いなしである。」
18日,義弘は善哉坊・全乗坊を筑後の豊後陣へ赴かせ,大友氏に9月の返事(「共に龍造寺を退治することが肝要です」という意見に対する返事)をしました。
「龍造寺氏はこの一・二年,秋月種実を媒介として和平を何度も請うてきた。かつ,肥後・筑後の領地からことごとく去って島津氏に与え,島津氏の旗下に属する者の中で,無二の忠功が抜きん出ている。ゆえをもって,龍造寺の求めに応じる。すなわち,龍造寺氏・秋月氏・筑紫氏が一心となって「豊後を陥落してほしい」との要請についてである。然して,豊後と薩摩は水と油ではないが,この地はことごとく講和したので,すなわち我らは兵を八代に引き上げる。大友氏もまた,軍を開陣せず我らと同じように帰れ。もし私の言うことを受け入れないなら,すなわち薩摩との和睦はご破算である。」
同日,彦山座主が「龍造寺政家が講和を求めていた件について,この度それを許していただき,当山においてもとても幸せである」と書を送ってきました。
19日,東の山に月が出るのを待って,満潮の海岸から,島津方の陣は船に乗って八代に去りました。
24日,以前龍造寺家晴・鍋島直茂らの進上した誓紙について,高瀬にいた時は諸般のことが繁多だったので,まだ返書をしていませんでしたので,この日誓紙を整え,彼らに贈りました。25日,軍衆も各所に帰陣しました。
12月4日,秋月種実・龍造寺政家らが鹿児島に使節を派遣し,義久に謁見しました。政家が告げて曰く,「このたび種実の媒介をもって和平が成りました。私の旗下の者たちはとても喜んでいます。久地井氏を使者として,太刀・馬・甲冑を贈ります。」彦山座主もまた龍造寺の和睦を喜んでいると述べ,使者を差し向けて太刀・織筋三反を贈ってきました。また,秋月氏・龍造寺氏が心を同じくして言うには,「薩摩諸将が高瀬に陣を敷いていた時,義弘殿は善哉坊・全乗坊の二僧を筑後の豊後陣に派遣して曰く,『速やかに豊後に帰れ』と言っていましたが,然るに今大友氏は高良山に駐屯し,筑後の辺地を侵しています。不正の至りです。善哉坊・全乗坊がこの報告をいまだ知らないので,お知らせしました。対応してください。」
これで島津氏と大友氏との和平はご破算となりました。

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文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図他

 

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