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更新日:2017年2月28日

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薩摩出身の実業家・五代友厚について紹介します

薩摩藩に生まれ,幕末には薩摩藩の富国強兵に尽力し,明治以降は大阪経済の立て直しに奔走した,五代友厚について紹介します。

誕生

薩摩藩士・五代友厚は,天保六年(1835年)12月26日に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷に生まれました。この年は,天璋院篤姫,小松帯刀,坂本龍馬や土方歳三など,幕末の有名人が生まれた華々しい年です。
(五代友厚誕生地)(外部サイトへリンク)

誕生の地

少年期

少年五代は,父・五代直左衛門秀尭(なおざえもんひでたか)が薩摩藩の記録奉行で藩主島津斉彬の側近くに仕えていたため,十四歳の時に世界地図を模写するよう命じられ,それを参考に自作の地球儀を作りました。この地球儀で,世界の距離を測り,航路を想像して,心密かに未来を夢見ていたようです。子どもの頃にあったこのような経験が,五代の精神に大きな影響を与え,世界に羽ばたくことに対するあこがれを育てたのでしょう。

長崎の海軍伝習所へ

二十三歳の時(安政四年(1857年)),薩摩藩によって長崎の海軍伝習所に派遣されました。薩摩藩からは五代含め16人が派遣され,ここで五代は,航海術・砲術・測量・数学などを学ぶ機会に恵まれました。また,勝海舟や榎本武揚,寺島宗則らとも親交を深めます。勝は「積極的に外国と交易をなして,その財力で海防力を強める」という意見を持っていました。その出会いはこの後の五代の思想に大きな影響を与えたと考えられます。

生麦事件・薩英戦争

五代が二十九歳の時(文久三年(1863年)),英国艦隊七隻が,薩摩藩に,前年に起こった「生麦事件」の下手人の差し出しと被害者遺族への賠償金二万五千ポンドを要求するため,横浜から鹿児島へ向かいました。薩英戦争の始まりです。
この時,五代は捨て身の覚悟でイギリスの代理公使ニール大佐との直接談判を行い戦争を回避しようと,長崎でイギリス艦隊を待っていましたが,艦隊は長崎に寄らずに鹿児島に直接向かいました。
急ぎ鹿児島に戻った五代は,開戦に備え,寺島宗則とともに薩摩藩所有の蒸気船三隻を船長として率いていました。イギリスと薩摩は生麦事件の賠償問題と犯人の逮捕処罰について交渉しているところでしたが,薩摩藩側が時間稼ぎを行い回答を出さないことから,しびれを切らしたイギリス側は,開戦前にもかかわらず,五代らの乗った薩摩藩の蒸気船三隻を拿捕するという強硬手段に出ました。

捕まる

捕らえられた五代と寺島は,代理公使ニールと艦隊司令官キューパー提督に尋問されますが,尋問後提督は「卿らは薩摩藩の艦長であるから,敬意を表するため一等士官の船室を居室に充てよう。開戦したら,自由に甲板に出て,戦況を視察せられよ。」と待遇は親切だったようです。
開戦とともに五代は甲板に上がり,彼我の戦況を視察しました。天候は荒れ,一時英国艦は休戦していました。提督は「更に市中に向かって砲撃を試み,兵士を上陸させようと思っているが,薩摩軍の兵士は強いのか。」と五代と寺島に尋ねました。
「古来日本の士風は死を見ることなお帰するが如きものがある。ことに我が薩藩は武をもってなり,いわんや今回は国家の大事にのぞみ,陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。しかも陸戦はそのもっとも得意とする所であるから,貴国水兵の陸戦隊の上陸を決死奮戦の意気込みで待ち構えている。ゆえに陸戦においては到底貴国の勝算はないと信じている。むしろ貴国は砲火を収めて善後修好の策を執る方が良い。」と答えました。

船の上で

提督はしばらく黙考して,この意見を聞き入れ,午後から少し交戦しますが,しばらくして砲撃を中止し,全艦隊を率いて翌日五代と寺島を捕虜としたまま横浜に退却します。英国軍はすでに薩摩藩と度重なる交戦をして,薩摩軍の善戦に「薩藩侮りがたし。」という評価だった上に,五代の弁舌によって「上陸したら10万人の兵士を相手にしなければならない。」と考えたのでしょう。

その後,五代と寺島は,英国艦隊から横浜に護送され,英国艦隊に幕府側の通訳として乗り込んでいた商人の清水卯三郎に引き渡されました。薩摩藩は,五代と寺島のことを「船奉行でありながら蒸気船を略奪され,英国の捕虜となったことはけしからぬ。」と考えており,幕府にいけばそのまま薩摩藩に引き渡され,処罰は免れぬであろうということで,清水はしばらく二人を薩摩藩や幕府からかくまってくれました。その後文久三年(1863年)年末には英国と薩摩藩の和議が成立し,(薩英戦争の決着)(PDF:463KB)元治元年(1864年)の夏頃には,五代はようやく赦免されました。

薩摩藩の富国強兵のために

藩から赦免されてほどなく,五代は藩庁へ上申書を提出しました。
この「五代友厚上申書」には,薩摩藩の今後について,「富国強兵」を進めるため,具体的に「藩士の各層から選出した若者16名を英仏国に留学させ,産業革命の技術を学ばせる。また,留学に同行させる視察員はその際にヨーロッパで軍艦・大砲・小銃・紡績機械を買い付ける。」,その資金は「上海貿易で捻出する。」,等々,具体的現実的かつ入念な計画が書かれており,誰もが感服したと言います。

派遣メンバー

薩摩藩英国留学

翌年慶応元年(1865年)五代友厚を含めた薩摩藩使節と留学生計19人が,串木野の羽島港を出発し,イギリスへ向かいました。
(薩摩藩英国留学生渡欧の地)

ヨーロッパ各国を回り,各国の視察をしながら,紡績機械や武器の買い付けなどをしました。この時の交渉で,五代は「商社合力」という共同出資による事業方法を学んだのです。
この「薩摩藩英国留学生」には,その後大成した人もたくさんいます。この薩摩藩英国留学生についての記念館が,その旅立ちの地「羽島」に2014年に建設されました。

(薩摩藩英国留学生記念館)(外部サイトへリンク)
現在,「五代友厚」を紹介するコーナーが館内に設置されており,さまざまな参考書籍を自由に読むことができるので,是非お越しください。
(こちらにも留学生の紹介記事が掲載されています。明治維新150周年記念HP(外部サイトへリンク)

また,この留学時にイギリスの当時世界最大の紡績機械メーカーに工場の設計と技術者の派遣を依頼し,慶応三年(1867年)に,集成館の隣に日本初の洋式機械紡績工場である「鹿児島紡績所」が建設されました。薩摩藩は,この英国技師たちが訪れる前から,藩独自の技術で大幅織機を製作する技術をもっていたので,わずか1年間で洋式紡績の技術を習得しました。その後,その知識と技術はやがて,富岡製糸場などの全国の紡績工場へ広まっていきました。
この「鹿児島紡績所」は,現在も建物が残っており,現在は「旧鹿児島紡績所技師館」と呼ばれています。2015年7月5日に,「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の構成資産として,世界文化遺産に登録された,世界的にもその価値が認められた施設です。

(旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館))(外部サイトへリンク)

パリ万博出品

薩摩藩がパリ万博に薩摩焼等を出品したことは有名ですが,このパリ万博参加も,五代の力が大きかったようです。
五代は,英国留学中に「我が文明を促進するの方法についての十八条」を,ロンドンから藩当局に建言しました。その中で,「仏国万国博覧会へ出品の要なること」とあります。
元々,フランス当局は,幕府のパリ駐在特命理事官柴田剛中に対して,参加を勧誘していたのですが,柴田は即諾しませんでした。一方,薩摩藩では五代と新納が,フランスのモンブランという貴族との間で,いろいろな商談交渉と併せて万博参加の話を進めていました。薩摩藩の参加が決定して,幕府も傍観してはいられないと,ついに参加を決定しました。幕府はそれから士民の出品希望者を募りましたが,最終的には幕府・薩摩藩・佐賀藩・一般商人二名,の参加となりました。
薩摩藩は「日本薩摩太守政府」の名を以て出品しました。幕府・佐賀藩は「日本大君政府」「日本肥前太守政府」と称し,その結果,諸外国に対して「幕府と諸大名は同等の地位」であるが如き印象を与えることになったのです。
また,モンブランの勧めで,パリ万博参加記念章として「薩摩琉球国勲章」を立案制定し,ナポレオン三世始め文武官に贈りました。これによって,薩摩藩は,また「幕府に対して独立的地位をもっている」ことを宣伝する効果を挙げました。幕府側もこれに対抗して記念章を立案しましたが,これは実現には至りませんでした。
このように薩摩藩は,万博という大きな舞台で諸外国に対して,薩摩藩が幕府と同等以上に強い力と影響力をもつことをアピールすることに成功したのです。その功労者の一人が五代でした。

万博

倒幕・明治時代開幕

慶応三年(1867年)年末,ついに幕府は倒され,新政府が樹立されました。
新政府が成立すると,総裁,議定,参与の三職が置かれ,五代友厚はこの参与の一人に任ぜられました。他に薩摩藩から参与に任ぜられたのは,西郷隆盛,大久保利通,小松帯刀,岩下方平,寺島宗則,町田久成らで,このそうそうたる面々に,五代友厚が並んでいたことは注目すべきことです。

大阪の復興

明治初期,維新変動の波を受けて,大阪経済は低迷期に入っていました。新政府の方針で一時期形式的に金本位制となり銀主体の商取引が廃止されたことと,藩債の整理による,富豪や両替商の資産消失が主な原因と言われています。
五代は,新政府で参与に任じられたと同時に,外国事務掛も兼任しました。この外国事務掛はその直後改組され,外国事務局となり,五代はその判事に任命されました。五代は判事として大阪に在勤していましたが,慶応三年暮れの外国貿易を開始する大阪の開市に伴い,諸外国の公使も大阪に集まってきました。
慶応四年九月,五代は大阪府判事も兼ね,大阪港の浚渫工事や波止場建設にも尽力して,大阪港での貿易拡大を図りました。
また,五代は大阪に造幣寮(現在の大阪造幣局)の誘致と建設を進めました。このように五代が行った様々な活動のおかげで,大阪に貿易・経済の力が集まり,明治維新の混乱によって低迷していた大阪にようやく復興の兆しが見え始めました。
明治二年五月,明治政府からこの活躍を買われ,五代は会計官(現在の財務省)権判事への異動と横浜転勤を命じられましたが,この五代の横浜転勤について,大阪の官民あげての一大反対運動が起こりました。五代の部下たちの外国事務局員一同が151名も署名した五代の留任嘆願書で「五代殿に転勤されては,船の舵を折られ,車の軸を失ったようなもので,大衆は愕然とするほかありません。もちろん五代殿の後任の方も立派な方がいらっしゃるでしょうが,五代殿のようにはできないでしょうし,たとえ良法でも諸事新規になっては,再び人気も引き立ちますまい。実に大港の盛衰にもかかわります。」との訴えがありました。五代は大阪にとって,それほど大きな存在であったと言えます。

大阪株式取引所(現在の大阪取引所)の設立

明治七年(1874年),政府は株式取引所条例を発布し,東京,大阪に各一カ所の取引所を置くことにしましたが,この時にはこの条例は当時の経済事情と相容れないものがあったので,五代は有志と図ってその実施延期と改正を要望しました。その後政府は当条例の根本的改正を行い,明治11年に改めて株式取引所条例を発布しました。
この条例発布を受けて,同年に五代は鴻池善右衛門,中井由兵衛,広瀬宰平,白木保三らとともに「大阪株式取引所」を発起しました。
五代はその会議の席上でのあいさつで,「事業が盛んになるか否かは,お互いの信用が厚いか薄いか如何によるものであります。ゆえに,どんなことをするにしても,誠を尽くし,堅い規律を立てて,国民をして一目での信用が得られるようにしなければなりません。」「会社に関する義務を果たすことは元より頑張ってもらわねばなりませんが,平日社外の交誼においても,互いに親睦を厚くし,友情をもって,互いに助け合わねばならないと私は考える次第です。」と述べています。五代の事業に対する熱意と誠意と,経営哲学,理念を明確に表した発言と言えます。

大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の設立

大阪株式取引所の設立の翌月には,大阪商法会議所が設立されました。五代をはじめ,鴻池善右衛門,三井元之助,広瀬宰平らを筆頭とする計11人が創立委員となりました。
五代はこの初代会頭となり,大阪の実業家の相互扶助によって,大阪商人の伝統である信用第一主義に則り自己の利益を増すと同時に,大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するという趣旨に基づく,大きな目標を掲げました。

大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立

五代は,近代国家の建設のためには,商業学校は必須と考えていました。(大阪に先んじて,東京でも森有礼が明治8年(1875年)に商法講習所を開設していました。)
そこで,簿記・商法を学ぶための学校を作ろうと,鴻池善右衛門,広瀬宰平,杉村正太郎らとともに創立員となって,明治13年(1880年)私立大阪商業講習所を設立しました。当該講習所では,簿記学,経済学,算術,習字,英語,中国語を中心にカリキュラムが組まれました。
明治15年には,大阪府立商業講習所に改称され,明治18年には大阪府立商業学校に昇格し,その後現在の大阪市立大学及び私立天王寺商業高校の基礎となりました。

最期

このように,五代友厚は近代大阪の発展に多大に貢献しましたが,明治18年(1885年),49歳の若さで東京に没しました。葬儀は大阪でとりおこなわれ,たくさんの人が参加して大々的な葬列の葬儀が行われたそうです。それほど大阪に尽くした功績が偉大だったのです。大正3年(1914年)には,大正天皇から特旨を以て正五位を追贈されました。

鹿児島には,五代友厚の像が二つあります。鹿児島市の泉公園にある「五代友厚像」と,鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」です。是非ご覧になってください。

(五代友厚像)(外部サイトへリンク)

(若き薩摩の群像)(外部サイトへリンク)

(鹿児島市内史跡マップ)(外部サイトへリンク)

この「若き薩摩の群像」は,昭和57年に,彫刻家の中村晋也先生が作成されたものです。鹿児島市の「公益財団法人中村晋也美術館」で,これらのブロンズ像の原型を見ることができます。また,大阪証券取引所前の五代友厚像も中村晋也先生の手によるもので,こちらの原型展示も見ることができます。彫刻の数々を間近で見ると,その迫力に圧倒されます。是非直接ごらんになってください。(展示の位置等は,時期によって多少の変動があります。)

 

(公益財団法人中村晋也美術館)(外部サイトへリンク)

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことにご留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史,維新史,五代友厚伝,鹿児島県作成パンフレット「SATSUMASPIRIT鹿児島の近代化産業遺産」

 

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