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更新日:2019年3月18日

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鹿児島市下福元町にある「清泉寺跡」を紹介します

鹿児島市下福元町に「清泉寺跡」があります。

かつての清泉寺は,南九州市の川辺にある宝福寺の末寺で,曹洞宗でした。岩間から清水が湧き出し,清泉の名にふさわしい所にあります。
跡には,石垣,2メートルを越える磨崖仏,覚卍和尚の墓,五輪塔群,板碑群などがあり,昔の面影を残しています。

寺跡入口には,自然湧水井戸跡があり,地域住民の方々によって花などがお供えされ,綺麗に管理されています。地域住民の方々が水汲みに来ることもあり,また,焼酎製造にも使われていたそうです。
材した時は,発掘調査を行っておりましたが,普段は,金網の所から自由に入ることができます。

然が豊かな場所であると共に,夏場は蛇(マムシ)などが出るとのことから,訪れる際には,注意してください。


清泉寺2

自然湧水井戸跡

清泉寺跡1

清泉寺跡入口


阿弥陀如来像磨崖仏(本尊)と小磨崖仏

尊は,阿弥陀如来像磨崖仏で,高さ約2.7mあります。百済(くだら)の僧,日羅上人の作と伝えられています。日羅上人は,今昔物語の中で,聖徳太子が師事した僧であると伝えられています。本尊隣には,南無阿弥陀佛(仏)の文字が六朝体の見事な書体で刻銘されています。

隣にある小磨崖仏には,建長三年辛亥二月時正と刻まれています。建長3年とは,西暦1251年(鎌倉時代)で,紀年銘のある磨崖仏としては県下最古のものです。

た,両磨崖仏の上部には,屋根があった形跡が残されています。


本尊

阿弥陀如来像磨崖仏(本尊)

正磨崖仏

建長三年辛亥二月時正磨崖仏



覚卍和尚墓と板碑,五輪塔群

泉寺は一時すたれ,応永年間(1394~1427)に覚卍和尚(かくまんおしょう)が再興しました。しかし明治2年(1869)の廃仏毀釈で,廃寺となりました。再興に尽力した覚卍和尚の墓石がある場所へ続く道は,土に被われていましたが,最近の調査によって,墓石まで階段状に岩が削られていることが分かりました。

た,この周辺には五輪塔等の磨崖が見られます。もともとある岩盤に立体的に彫られており,種類が多いのも魅力の一つです。他にも,五輪塔や板碑等が多く残されています。


覚卍和尚墓

覚卍和尚墓

供養五輪塔群

五輪塔や板碑


板碑

磨崖1

板碑2

磨崖2



首塚と島津大和守久章の墓(大五輪塔)

泉寺は垂水新城領主の島津大和守久章(しまづやまとのかみひさあき)が正保2年(1645)自害した場所でもあります。

津久章は島津家15代当主貴久の弟忠将の子孫で,18代当主家久の娘をめとり,新城島津家の祖となりました。久章は,身体剛健偉大,文武に長け,鉄砲が上手であり,制度改革,人材育成登用などに善政を行っていたとされています。
かし,寛永16年(1639),19代当主光久の命を受け江戸に行き,その帰り道,紀州家に立ち寄った際に駕籠に乗ったまま玄関に横付けあいさつを行うなどして問題を起こしました。相手が御三家ということもあり,激怒した光久は,久章を川辺の宝福寺に閉じ込めました。久章は,藩命で島流しを申しつけられましたが,きかず,末寺である清泉寺に移されました。そして,上意討ちにあい,30歳で亡くなりました。

畳参道途中には,首塚があります。ここで,久章が丘の上からの弓射によって負傷し,自害し果てたところと伝えられています。
津大和守久章の墓は,石畳参道を登ったところにあり,高さは,2.5メートル,県内でも有数の大きさの大五輪塔です。久章の死から54年後,元禄14年,新城島津家によって墓石が建てられたといわれています。正保2年に亡くなった久章ですが,墓石には正保4年と刻まれており,謎が残っています。
た,大五輪塔の後ろには,家来の墓碑が並んでいます。

地の人々は,久章のことを「大和さぁ」と呼んで親しんできました。疱瘡の神としても信仰が厚かったと伝えられています。



石畳参道

石畳参道

首塚

首塚

 

 

島津久章墓

島津大和守久章の墓(大五輪塔)

家来の墓

家臣の墓碑


在家菩薩磨崖仏,妙有大姉磨崖仏

泉寺跡の西側には,在家菩薩磨崖仏(ざいけぼさつまがいぶつ),妙有大姉磨崖仏(みょうゆうだいしまがいぶつ)があります。

家菩薩磨崖仏は,立像で,高い崖面におよそ2メートル,右手に槍をもち,左手をそえており上体は裸体で,下衣のみ着けています。顔は壊されており,形相は不明ですが,日新公を神格象徴したものとの伝承があります。

有大姉磨崖仏の像は,在家菩薩と並んで立っています。この像の右手は,胸前で剣を持ち,左手は腰に托しています。顔面や手足など,損傷を受けておらず,形相などをはっきりと捉えることができます。高さは2メートルを越えるもので,両足をしっかりとふまえた力強い姿です。日新公御夫人妙有大姉を象徴神格化した像であるとの伝承があります。


在家菩薩と妙有大姉

在家菩薩磨崖仏(左)と妙有大姉磨崖仏(右)

在家菩薩

在家菩薩磨崖仏

 

妙有大姉

妙有大姉磨崖仏

 



阿吽金剛力士像磨崖仏

の両磨崖仏は台地の岩壁がL型になっている両面を利用して彫刻されたものです。一つは東を向き,もう一つは北を向いており,高さは共に2メートルを越えるほどです。川を挟んで丁度対岸の在家菩薩,妙有大姉と相対しています。

吽の像は共に金剛杵を持ち(阿の像は左手に,吽の像は右手にもつ),怒りを全面に表した形相をしています。廃仏毀釈よる影響を受けておらず,堂々とした彫刻を見ることができます。


阿吽金剛力士像磨崖仏1

阿吽金剛力士像磨崖仏(写真左上)とその周辺

阿吽金剛力士像磨崖仏2

阿吽金剛力士像磨崖仏

 


今回,紹介した記事は,「谷山市誌(昭和42年3月発行)」,「鹿児島市史跡めぐりガイドブック-五訂版-(鹿児島市教育委員会・平成28年3月発行」他を参考としています。鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

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