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更新日:2024年9月27日
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種類:有形文化財(建造物)
所在地:阿久根市脇本8280
所有者:宗教法人西徳寺
特徴等
西徳寺は,阿久根市脇本の河口を臨む小高い敷地にあります。寺院の正式名称は「宝龍山西徳寺」で,本堂は明治43(1910)年に火災で消失しましたが,翌年再建しました。この門は本堂に引き続いて,大正2(1913)年に建設されたもので,参道でもある前面の道路から十数段の石段を登ったところにあります。二重二層の山門で,本寺では「楼門(ろうもん)」と呼んでいます。初重は三間一戸の四足門,二層目は方三間で四方に欄干(らんかん)を廻(めぐら)し,柱間に花頭窓(かとうまど)をあしらっており,当初から二層目に梵鐘(ぼんしょう)を吊るしています。彫り物などの各部の細部意匠もすばらしく,二層目を鐘楼とする県内唯一の楼門形式であり貴重な文化財です。
種類:有形文化財(絵画)
所在地:出水市歴史民俗資料館
所有者:出水市
特徴等
三十六歌仙とその和歌が記された歌仙絵の扁額で,山部赤人(やまべのあかひと)を除く35枚が現存しています。かつては愛宕(あたご)神社(出水市)の所蔵でしたが,昭和46年7月10日に出水市指定文化財(絵画)に指定され,出水市立歴史民俗資料館に保存されています。作者については「狩野雄尽(かのうゆうじん)」とする説がありますが,この絵師について詳しいことはわかっていません。画風は,顔の造作や髪の流れ,衣装の文様などが比較的丁寧に描かれ,体躯(たいく)に比して頭部が大きく,のっぺりとした顔貌(がんぼう)をもつなど,中世風な画風が残ります。和歌については,近衛前久(このえさきひさ)が記したという記録があります。三十六歌仙絵扁額として制作年代も古く(1577年),天正年間(1573年~1592年)に地方へと伝播(でんぱ)した狩野派(かのうは)と推測される絵画として注目されます。また島津家と近衛家との交流を裏付ける歴史資料としても非常に重要です。
種類:有形文化財(考古資料)
所在地:鹿児島県立埋蔵文化財センター,鹿児島女子短期大学,埋蔵文化財作業室・収蔵庫(出水市)
所有者:鹿児島県,出水市,個人
特徴等
出水貝塚では,大正9(1920)年から平成10年までの間に計6回の発掘調査が行われました。縄文時代早期,中期~後期の遺物が出土しており,出水式土器の標式遺跡となっています。縄文時代早期の層からは押型文(おしがたもん)土器がまとまって出土したほか,縄文時代中期~後期の層からは阿高(あたか)式土器や南福寺(なんぷくじ)式土器・出水式土器・市来式土器などが出土しました。そのほか,石器・貝製品・骨角器も出土しています。中でも転用したと考えられる石製垂飾品は再利用の例として重要です。また,縄文時代の人骨も出土しています。今回追加指定となった,大正9年の発掘調査に係る長谷部言人(はせべことんど),濱田耕作(はまだこうさく),島田貞彦(しまださだひこ)らによる書簡は,当時我が国の人類学界や考古学界で活躍していた研究者の直筆資料であり,調査当時の雰囲気を感じさせる貴重な資料です。
種類:史跡
所在地:伊佐市大口木ノ氏1287番地1のうち一部
所有者:伊佐市
特徴等
高熊山古戦場は,大口盆地の北東にある高熊山(標高412m)の山頂にあります。現在,一帯は伊佐市指定史跡として保存され,公園として市民に親しまれています。明治10(1877)年2月に勃発(ぼっぱつ)した,国内最大・最後の内戦とされる西南戦争において,5月から6月にかけて行われた人吉・大口方面の戦いの主戦場のひとつです。文献記録では,政府軍が残した『別働第二旅団戦記巻之四』,『戦袍日記』や『戦闘報告表』等に当時の戦闘状況が詳細に記録されています。これらによると,高熊山古戦場では,6月18日から戦端(せんたん)が開かれ,同20日に政府軍の勝利で終了しています。令和元年度に実施した史跡内に残る9基の堡塁(ほ(う)るい)(塹壕(ざんごう))跡の配置や構造の解明等を目的とした発掘調査の結果,堡塁跡の構造が2種類あることなどを把握できたほか,銃弾や薬莢(やっきょう)も発見されました。また,文献記録に残る戦闘状況と発掘調査の成果が,おおよそ一致することも確認されました。高熊山古戦場は,西南戦争の状況が明らかになった遺跡として貴重です。
種類:史跡
所在地:大島郡伊仙町佐弁トマチン295
所有者:伊仙町
特徴等
トマチン遺跡は,徳之島の南海岸のやや東に位置します。サンゴ礁の浅海とそれに続く砂丘上の一角にあり,標高約15m,長さ約50mの小丘上に立地しています。この遺跡は,平成4年,重機による土砂採取作業中に石棺墓(せっかんぼ)と人骨が発見されたことで知られるようになりました。その後,平成16年から20年にかけて鹿児島大学を中心とする調査チームによる発掘調査が実施され,また平成28年度から令和元年度にかけては伊仙町教育委員会によって発掘調査が実施されました。その結果,約2,400年前から約2,000年前(弥生時代前期から中期)にかけての石棺墓4基と土坑墓2基や,土器,貝製品などが発見されました。埋葬時期の異なる人骨が3段のサンゴ礫(れき)の床にそれぞれ重ねられている石棺墓があること,また,複数の墓のまとまりを礫で覆うことにより墓域を表示していた可能性があることなどは特徴的です。また,九州より北の地域との関係を示すヒスイも出土しました。このように,トマチン遺跡は,奄美群島の先史時代の墓制と文化交流の実態を理解する上で貴重な遺跡です。
種類:史跡
所在地:鹿児島市清水町10番2外
所有者:鹿児島県,鹿児島市
特徴等
西欧列強の艦船のあいつぐ来航に危機感を強めた薩摩藩は,弘化3(1846)年から海防のため台場の整備に取り組みました。祇園之洲台場は嘉永6(1853)年に第11代藩主島津斉彬時代に築かれた台場です。文久2(1862)年,武蔵国生麦村(現横浜市)で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)が起きると,文久3(1863)年,イギリス艦隊は薩摩藩に報復攻撃を行い,「薩英戦争」が勃発(ぼっぱつ)しました。祇園之洲台場跡は,この薩英戦争で,イギリス艦隊に砲撃を加え,激戦地となった場所です。平成22年度の発掘調査で,薩英戦争当時の石垣や砲座・土塁(どるい)などが広く残存していることが確認されました。薩英戦争は,西欧の進んだ科学技術を積極的に導入するきっかけとなった戦争であり,それに関連する遺構が良好な状態で残っている祇園之洲台場跡は,日本の近代化の過程を知る上で大変貴重な遺跡です。
種類:天然記念物
所在地:鹿児島郡十島村諏訪之瀬島字根神嶽382番,383番,384番1,386番,387番,388番
所有者:十島村
特徴等
日本固有種であるヤマザクラは東北地方から九州まで分布し,トカラ列島を分布の南限としています。トカラ列島では中之島と諏訪之瀬島に自生が知られていますが,九州南西部以南のものは,新芽が黄緑色で,萼片(がくへん)に鋸歯(きょし)(のこぎり状の切れ込み)があること,苞(ほう)の幅が広いなどの特徴をもつことから,ヤマザクラの変種ツクシヤマザクラとして区別されています。諏訪之瀬島では南西部のナベダオに個体群が存在しています。昭和50年代に牧場として開発されましたが,伐採されず島民によって保護されており,十数個体の高木が生育しています。これらは台風の影響で単幹の成長が妨げられ,複数の幹が株立ちしています。特に,海抜約300メートルに生育する根回り5.4メートルの巨木が「ナベダオの山桜」として知られていますが,倒伏した根元から枝分かれする独特の樹形に威容があります。種の南限であるにもかかわらず,比較的多くの大木があるなど,自然個体群として貴重なものです。
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