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近代化遺産

見てみよう、近代化遺産(いさん)

鹿児島県の近代化を支えた(ささえた)文化遺産(いさん)を通して、幕末(ばくまつ)から現代(げんだい)への発展(はってん)を見てみましょう。

旧集成館(しゅうせいかん)機械工場

島津(しまづ)家第28代当主の島津斉彬(しまづなりあきら)が、現在(げんざい)の鹿児島市の磯(いそ)地区に築いた(きずいた)近代的工場群(ぐん)をまとめて集成館(しゅうせいかん)といいます。斉彬(なりあきら)の死後、集成館(しゅうせいかん)事業を継いで(ついで)、1865年に石造り(いしづくり)の機械工場が建てられ、大砲などが作られました。大正時代に博物館に改装(かいそう)され、現在(げんざい)は尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)として、集成館(しゅうせいかん)事業に関する資料などが展示されています。

日本に現在(げんざい)残っている最古の洋風工場建築物(けんちくぶつ)で、国の重要文化財(ぶんかざい)です。また、「九州・山口の近代化産業遺産群(いさんぐん)」の一つとして世界遺産(いさん)暫定一覧表(ざんていいちらんひょう)に記載(きさい)されています。

旧鹿児島紡績所(ぼうせきじょ)技師館(ぎしかん)

慶応3(1867)年、集成館(しゅうせいかん)の隣(となり)に日本初の洋式機械紡績(ぼうせき)工場である鹿児島紡績所(ぼうせきじょ)と、イギリス人技師(ぎし)7名の宿舎(しゅくしゃ)として鹿児島紡績所(ぼうせきじょ)技師館(ぎしかん)が建てられました。「異人館(いじんかん)」とも呼ばれています。

国の重要文化財(ぶんかざい)で、「九州・山口の近代化産業遺産群(いさんぐん)」の一つとして世界遺産(いさん)暫定一覧表(ざんていいちらんひょう)に記載(きさい)されています。

祇園之洲(ぎおんのす)砲台跡(ほうだいあと)

イギリスやフランスなどの船が次々にやって来るようになると、薩摩藩(さつまはん)では海からの攻撃(こうげき)に備えて(そなえて)各地に砲台(ほうだい)を作りました。鹿児島市の祇園之洲(ぎおんのす)にある砲台(ほうだい)は1853年に完成しました。文久3(1863)年に薩摩藩(さつまはん)とイギリスが戦った「薩英(さつえい)戦争」では一番の激戦地(げきせんち)でした。

「九州・山口の近代化産業遺産群(いさんぐん)」の構成資産(こうせいしさん)の一つです。

天保山(てんぽざん)砲台跡(ほうだいあと)

鹿児島市の天保山(てんぽざん)町にある砲台跡(ほうだいあと)で、嘉永3(1850)年に作られました。文久3(1863)年の「薩英(さつえい)戦争」では、この砲台(ほうだい)が火蓋(ひぶた)を切り戦闘(せんとう)が始まりました。

現在は地中に埋まって(うまって)いる部分もありますが、大砲(たいほう)の台座(だいざ)の跡(あと)を見ることができます。

新波止(しんはと)砲台跡(ほうだいあと)

鶴丸城(つるまるじょう)の正面を守る主力砲台(ほうだい)で、「薩英(さつえい)戦争」では、150ポンド砲(ほう)をはじめ11門の大砲(たいほう)が備え(そなえ)られました。

砲台(ほうだい)としての役割を終えた後は、防波堤(ぼうはてい)として利用されていました。現在は、海側が埋め(うめ)立てられ、水路に面した護岸(ごがん)となっており、石垣(いしがき)や大砲(たいほう)の台座(だいざ)の石組みが残っています。

国の重要文化財(ぶんかざい)です。

根占(ねじめ)砲台跡(ほうだいあと)

南大隅(みなみおおすみ)町の根占にある砲台跡(ほうだいあと)で、文久2(1863)年に海からの攻撃(こうげき)に備えて(そなえて)作られました。現在(げんざい)は、大砲(たいほう)を据える(すえる)ように加工された、長さ約60メートルにわたる石垣が残っています。

旧曽木(そぎ)発電所本館

伊佐(いさ)市の「曽木(そぎ)の滝(たき)」下流の湖底にある産業遺産(いさん)です。明治42(1909)年に建設(けんせつ)された発電所の跡(あと)で、当時は国内最大級の発電力がありました。日本の電気化学工業発祥(はっしょう)の地ともいわれています。昭和40(1965)年の鶴田(つるだ)ダム完成により湖底に沈み(しずみ)ましたが、水位が下がる5~9月には、ヨーロッパのお城を思わせるレンガづくりの建物が姿(すがた)を現し(あらわし)ます。

肥薩(ひさつ)線

JR肥薩(ひさつ)線は、熊本、宮崎、鹿児島の3県を貫き(つらぬき)、線路沿い(ぞい)に数多くの木造駅舎(もくぞうえきしゃ)が残っています。大隅横川(おおすみよこがわ)駅や嘉例川(かれいがわ)駅の駅舎(えきしゃ)は、県内でもっとも古く、開業から100年近くが過ぎ、国の登録有形文化財に登録されています。
写真上/嘉例川(かれいがわ)駅

写真下/大隅横川(おおすみよこがわ)駅

串木野(くしきの)鉱山(こうざん)五反田(ごたんだ)会館

串木野(くしきの)鉱山(こうざん)は万冶元(1658)年に薩摩藩(さつまはん)の命令によって、金の採鉱(さいこう)が始まり、一時は日本一の金の産出量を誇った(ほこった)こともありました。現在(げんざい)、坑道(こうどう)の一部は焼酎(しょうちゅう)の仕込み(しこみ)場や貯蔵庫(ちょぞうこ)として利用され、焼酎(しょうちゅう)のテーマパークとなっています。

五反田(ごたんだ)会館は大正2(1913)年に発電所として造られた(つくられた)レンガ造り(づくり)の工場でした。県内では数少ないレンガ建築の貴重(きちょう)な建物です。

山ケ野(やまがの)金山

霧島(きりしま)市横川町山ケ野とさつま町永野の2つの町にまたがる大金山で、永野金山とも呼ばれました。寛永17(1640)年に発見され、一時は年間産金量が日本一となることもありました。薩摩藩(さつまはん)は山ケ野(やまがの)金山の近代化を進め、慶応3(1867)年には、西洋の鉱山(こうざん)技術を取り入れるためフランス人の技師を招きました。明治維新(いしん)後は、水力発電による採掘(さいくつ)も行われました。

知覧(ちらん)製鉄遺跡群(せいてついせきぐん)

南九州市知覧(ちらん)の製鉄炉(せいてつろ)は高さ5メートルほどの高炉状(こうろじょう)のもので、自然の切石(きりいし)を利用して築いたと言われています。知覧(ちらん)の厚地松山(あつちまつやま)では水路跡が、二ツ谷(ふたつや)では製鉄炉(せいてつろ)が発見されています。

安房(あんぼう)森林軌道(きどう)

屋久島(やくしま)の森林軌道(きどう)は、国有林開発の基地(きち)であった小杉谷(こすぎだに)・石塚(いしづか)集落と安房(あんぼう)をつなぐ唯一(ゆいいつ)の交通手段(しゅだん)でした。大正11(1922)年から建設が始まり、その後年々延長(えんちょう)され、総延長(そうえんちょう)は26キロメートルにもなりました。

奄美(あまみ)蘭館山(らんかんやま)

慶応元(1865)年、薩摩藩(さつまはん)はイギリス人技師のウォートルズとマッキンタイラーを奄美大島(あまみおおしま)に送り、白糖(はくとう)工場を建設させました。工場の背後の山は、西洋人が住む山ということで「蘭館山(らんかんやま)」と呼ばれるようになりました。

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