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更新日:2012年6月12日

神社・仏閣


吾平山陵(あいらさんりょう)(鹿屋市)

神武天皇の父「ウガヤフキアエズノミコト」の御陵で、俗にこの山を鵜戸山、窟を鵜戸窟(うどのいわや)と称している。洞窟の中にある御陵は全国でも珍しい。岩屋の前には、みさそぎの川が流れ橋が架かっているが、一般の人はこの橋を渡ることはできない。

一乗院跡(いちじょういんあと)(南さつま市)

寺伝によれば、今からおよそ1,400年前、百済の僧日羅が、仏教弘布のため創建したといわれ、勅願寺として栄えたという。島津忠良・貴久・義久なども帰依し、三州領内に真言宗122寺を末寺にもつ大寺であった。
廃仏毀釈であとかたもなくなり、仁王像2基と上人墓が残るのみである。現在、坊泊小学校の敷地になっている。

可愛山陵、新田神社(えのさんりょう・にったじんじゃ)(薩摩川内市)

アマテラスオオミカミの孫で、高千穂峰に降り立ったといわれる、ニニギノミコトを祀る御陵。亀神山といわれるこの山の周辺には古墳が多い。
この山の中腹にあるのが新田神社で、全山うっそうとした古木におおわれ、かつて薩摩一ノ宮と称された神域の面影を残す。社宝の銅鏡の多くが、国指定重要文化財である。

大隅国分寺跡(おおすみこくぶんじあと)(霧島市国指定史跡)

大隅国が置かれたのは、713年頃といわれるが、大隅国分寺が記録に初めて登場するのは、弘仁式(820年)であり、出土した古瓦の形式などからみて、奈良時代末期か平安時代初期の創建と考えられる。今は1142年(康治元年)の銘がある六重の塔と石像が残っているのみである。国分の呼び名は、もちろんこの寺があったことの名残である。

大慈寺(志布志市)

1340年(興国元年)の創建で、臨済宗十刹の列に加えられた。藩政時代には、門前は2町余、屋敷は70余を数え「志布志千軒の町」といわれるほどの盛況を呈し、100人を越える雲水が修業していたという。大隅地域の学問・文化の中心として教育や産業の発展に尽くした。
廃仏毀釈のため一時廃寺となったが、再興され、現在に至っている。県指定の重要文化財が数々あり、寺門の仁王像もそのひとつである。

鹿児島神宮(霧島市)

アミツヒタカヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメを主祭神とする。神武天皇創建といわれる古い社歴を有し、大隅一ノ宮として知られている。
権現造り、丹塗りの社殿は1756年(宝暦6年)に建てられたもの。いろいろ威胴おどし丸兜大袖付と2口の刀は国の重要文化財に指定されている。
ここの神事、鈴懸馬踊りは、全国にも例をみないユニークなものとして有名、また、鯛車、香箱、鳩笛、弾き猿などの信仰玩具が全国に知られている。

霧島神宮(きりしまじんぐう)(霧島市 国指定重要文化財)

高千穂に天降りされたというニニギノミコトとその子孫を祀っている。建立は6世紀の中頃といわれ、古い歴史を誇る由緒ある神社。
もと高千穂峰の山頂にあったが噴火で焼失、高千穂河原に再興されたが、これも噴火で炎上し、今の社殿は1715年(正徳5年)に建てられたもの。朱塗りの見事さは西の日光といわれるほどで、杉の大木に囲まれた境内は、別世界の感がある。

郡山八幡神社(こうりやまはちまんじんじゃ)(伊佐市国指定重要文化財)

1194年(建久5年)、菱刈氏の祖が建立したとされる。社殿は室町ならびに桃山時代の形式を伝えていて、柱の彫刻には琉球の影響もみられる。社殿内から日本最古の「焼酎」という文字のある落書が発見されたことでも、つとに知られている。俗には「郡山八幡」と呼ばれている。

薩摩国分寺跡(さつまこくぶんじあと)(薩摩川内市国指定史跡)

741年(天平13年)、聖武天皇の勅願により全国各地に国分寺と国分尼寺が建立されることになった。薩摩国分寺もその一つである。現在は、当時の礎石が残っており、その大きさからみても、いかに立派な建物であったかがうかがえる。跡地一帯は公園化されている。

高屋山稜(たかやさんりょう)(霧島市)

アマツヒタカヒコホホデミノミコトを祀る。ニニギノミコトの皇子で山幸彦ともいう。古事記に「ミコトの陵は其の高千穂の西に在り」と記されていることから、ここが陵と決められた。
杉木立の中の静かな山内は、空港からわずか2kmということが信じられないほどの雰囲気を漂わせている。

徳重神社(とくしげじんじゃ)(日置市)

1390年(明徳元年)開山され、1604年(慶長9年)、島津義弘の菩提寺となった妙円寺が、1869年(明治2年)に廃寺となった跡に建立された神社で、島津義弘を祭神として祀る。1880年(明治13年)には隣に妙円寺が再興された。
毎年10月第4日曜日には義弘の遺徳をしのんで青少年が徒歩参拝する妙円寺詣りがにぎやかに行われ、たくさんの人が集う。

南州神社・南州墓地(なんしゅうじんじゃ・なんしゅうぼち)(鹿児島市)

1877年(明治10年)9月24日、官軍の総攻撃で西郷隆盛以下藩軍が全滅すると、岩村通俊県令は官軍の許可を得て西郷以下藩軍の遺体を鹿児島市の5か所に仮埋葬した。1879年(明治12年)、有志の者が、知事の許可を得て現在地に改葬し参拝所も建てた。
その後、各地で戦死した者の遺骨も集められ、2,023柱を祀る南洲墓地となった(南洲の名は西郷の雅号からとった)。その後、参拝所は南洲神社となり、1978年(昭和53年)には墓地の隣に西郷南洲顕彰館も建設された。

福昌寺跡(ふくしょうじあと)

1394年(応永元年)、島津氏第7代元久の命で、石屋眞梁(せきおくしんりょう)禅師が開山した曹洞宗の寺院で、島津氏歴代の菩提寺として栄えた。
廃仏毀釈で廃絶したが、墓地は当時のまま残っている。多くの墓碑や石灯籠がずらりと立ち並び、苔むしている姿は島津の歴史の古さを感じさせてくれる。跡地は現在、鹿児島市立玉龍高校の敷地になっている。

枚聞神社(ひらききじんじゃ)(指宿市)

祭神は枚聞大神一座(オオヒルノムチノミコト他)を祀るが、もともと開聞岳を祀る地域の信仰から発展したものである。平安時代には朝廷の尊崇あつく、薩摩一ノ宮として薩摩第一の社格を誇ったが、後に川内の新田神社が島津氏の保護を受けて台頭すると、薩摩一ノ宮の座を争うようになった。航海の安全を祈願する神としても信仰を集めてきた。

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