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薩摩藩と島津斉彬

薩摩藩(さつまはん)について

西郷隆盛(さいごうたかもり)をはじめとする、歴史上に名前を残す人物が多数生まれ育った薩摩藩(さつまはん)のことを紹介(しょうかい)します。

外城制度(とじょうせいど)

薩摩藩(さつまはん)では、領内(りょうない)を「外城(とじょう)」という細かい区画に分けていました。それぞれの外城(とじょう)には、役所にあたる地頭仮屋(じとうかりや)をおき、その周りに「麓(ふもと)」という武家(ぶけ)集落をつくりました。外城(とじょう)の数は時期によって変化しますが、113カ所ほどありました。いざという時には、麓(ふもと)の武士たちが中心となって軍団をつくる仕組みでした。

外城(とじょう)は後に「郷(ごう)」と呼ばれるようになりました。

郷中(ごじゅう)教育

鹿児島では、「郷(ごう)」という地域(ちいき)ごとに、「郷中(ごじゅう)教育」という独特(どくとく)の青少年教育を行っていました。藩士(はんし)の子どもたちを、15歳(さい)前後~25歳(さい)前後の「二才(にせ)」と、6、7歳(さい)~15歳(さい)前後の「稚児(ちご)」に分けて、先輩が後輩を集団で指導(しどう)して学問や武芸(ぶげい)に励んで(はげんで)いました。

古くからの教え

出水(いずみ)には、「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」と呼ばれる、江戸時代に作られた教えがありました。

「士(し)ハ節義(せつぎ)を嗜み(たしなみ)申すべく候(そうろう)」。人は正しいことをしなくてはいけないと言っています。

正しいこととは、うそを言わないこと、自分よがりの考えをもたないこと、素直(すなお)で礼儀(れいぎ)正しく、目上の人にペコペコしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと、困っている人は助け、約束は必ず守り、何事にも一生懸命(いっしょうけんめい)やること、人を困らせるような話や悪口などを言わないこと、自分が悪ければ首がはねられるようなことがあっても弁解(べんかい)したり恐れ(おそれ)たりしてはいけない、そのような強い心を持つこと、小さなことでこせこせしない広い心で相手の心の痛みが分かるやさしい心を持つこと、と教えています。

郷中(ごじゅう)教育のもと「いろは歌」

郷中(ごじゅう)教育のもとになったのが、島津忠良(しまづただよし)がつくった「いろは歌」といわれています。忠良(ただよし)は、島津(しまづ)氏の発展(はってん)の基礎(きそ)となった人で、日新公(じっしんこう)とも呼ばれています。

「いろは歌」には47の歌があり、最初の「い」は、「いにしへのを聞きても唱え(となえ)てもが行いにせずばかひなし」。昔から伝わるいろいろな言葉を聞いて覚えるだけでは役に立たない、大切なことはそれを実践(じっせん)することだ、という意味です。

武家屋敷(ぶけやしき)

現在(げんざい)も、出水(いずみ)や知覧(ちらん)、加世田(かせだ)、野田、入来(いりき)、里、下甑(しもこしき)、蒲生(かもう)、志布志(しぶし)など、県内のあちこちで、武家屋敷(ぶけやしき)の静かなたたずまいを見ることができます。

なかでも、出水(いずみ)の武家屋敷群(ぶけやしきぐん)は肥後(ひご)との国境(こっきょう)に近いこともあって、規模(きぼ)が大きく風格(ふうかく)があります。知覧(ちらん)の武家屋敷群(ぶけやしきぐん)では美しい庭園が見られます。

科学者でもあった島津斉彬(しまづなりあきら)

島津(しまづ)家第28代当主の島津斉彬(しまづなりあきら)は、人材登用(とうよう)に優れ(すぐれ)ていました。また、藩主(はんしゅ)にして科学者でもあり、多くの功績(こうせき)を残しました。

反射炉(はんしゃろ)

斉彬(なりあきら)は、大砲(たいほう)を造る(つくる)ために反射炉(はんしゃろ)の建設(けんせつ)に取り組みました。日本では佐賀藩(さがはん)がすでに大砲(たいほう)づくりを始めていました。1号炉(ろ)が失敗した時、斉彬(なりあきら)は「西洋も佐賀(さが)も人間がやっていること。同じ人間である薩摩(さつま)人にできないことはない」と言って励まし(はげまし)、2号炉(ろ)を完成させました。

ガラス工場

薩摩切子

薩摩藩(さつまはん)のガラス製造(せいぞう)は、島津(しまづ)家第27代当主の斉興(なりおき)が、江戸から招いた(まねいた)ガラス職人(しょくにん)に薬ビンをつくらせたのが始まりです。

後を継いだ(ついだ)斉彬(なりあきら)は着色ガラスを研究させ、透明(とうめい)ガラスに色ガラスを被せ(かぶせ)、カットを施して(ほどこして)模様(もよう)を刻む(きざむ)「薩摩切子(さつまきりこ)」を完成させました。

ガス灯

ガス灯イメージ

鹿児島市の磯(いそ)地区にある仙巌園(せんがんえん)は、島津(しまづ)家の別邸(べってい)があったところで、園内の鶴灯籠(つるどうろう)と呼ばれる石灯籠(いしどうろう)には、日本で初めてガスの明かりがともりました。

斉彬(なりあきら)は、学者にガス灯の用法を書いた外国の本を翻訳(ほんやく)させ、磯別邸(いそべってい)にガス室を設置(せっち)。安政4(1857)年8月に、園内の鶴灯籠(つるどうろう)をはじめとする石灯籠(いしどうろう)に点火しました。

大砲(たいほう)

斉彬(なりあきら)の側近の市来四郎(いちきしろう)は、安政4(1857)年に鉄製(てつせい)150ポンド砲(ほう)の製造(せいぞう)に成功した、と書き残しています。150ポンドとは砲弾(ほうだん)の重さのことで、約70キログラム。この砲弾(ほうだん)を約3,000メートル飛ばすことができたといいます。仙巌園(せんがんえん)で150ポンド砲(ほう)のレプリカを見ることができます。

軍艦(ぐんかん)

斉彬(なりあきら)は、嘉永4(1851)年に洋式帆船(はんせん)づくりを始めました。3年後には3本マストの「伊呂波丸(いろはまる)」が完成し、その後、日本初の洋式軍艦(ぐんかん)「昇平丸(しょうへいまる)」を、さらに日本初の蒸気(じょうき)船「雲行丸(うんこうまる)」を完成させました。どちらも翻訳(ほんやく)書を使いながら、日本人だけで苦労して成し遂げ(なしとげ)ました。

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