更新日:2020年7月28日

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黎明館敷地散策

 

黎明館敷地散策ガイド(東側編)(PDF:1,562KB)
黎明館敷地散策ガイド(西側編)(PDF:4,329KB)

 

鹿児島県歴史・美術センター黎明館の敷地は,17世紀初め初代鹿児島藩主家久によって構築され,江戸時代を通じて藩主島津氏の拠点となった,鹿児島(鶴丸)城の本丸の跡です。
治時代以降は,知政所,鎮西(熊本)鎮台第二分営,中学造士館,第七高等学校造士館,鹿児島大学文理学部,同医学部などが設置され,昭和58(1983)年,鹿児島県歴史資料センター黎明館が開館しました(令和2年4月に現名称に改称)。

在,この地には,石垣や濠,御楼門に至る石橋が残っており,これらは「鶴丸城跡」として県指定史跡になっています。また,敷地内には歴史を刻む様々な記念碑等が残されています。

なお,鹿児島城は(公財)日本城郭協会から日本100名城の一つに認定されています。

 
 
敷地散策概説(左列の東(数字)・西(数字)は,「黎明館敷地散策ガイド(東側編)(西側編)」に記載の番号)
東1 御楼門(ごろうもん)

明治6(1873)年に火災により焼失。
令和2(2020)3月に復元。

東2 御楼門橋(ごろうもんばし) 御楼門に至る石橋。慶長11(1606)年に板橋(木の橋)が架けられ,文化7(1810)年に石橋に架け替えられた。
東3 初夏に薄紅色の花を咲かせる多年植物。
濠の蓮の由来は諸説あるが,平成12(2000)年に七高史研究会がまとめた「七高造士館で学んだ人物(名簿編)」によると,丹下丑之助の項目に「丹下梅子の兄鶴丸城の堀に蓮を植えた」とある。
丑之助は明治34(1901)年から2年間,第七高等学校造士館の数学教師,及び教頭を務めた人物で,丹下梅子(日本人女性2人目の博士号取得者)の兄。
東4 石垣と隅欠(すみおとし)

敷地の周囲は濠の石垣に囲まれている。
鬼門にあたる北東の石垣は角が欠けており,災い除けと考えられる。

東5

弾痕跡 御楼門周辺の石垣に見られる無数のくぼみの多くは,明治10(1877)年の西南戦争の際の弾痕跡で,政府軍の攻撃の凄まじさを今に伝えている。
東6 第七高等学校造士館時代の門柱 いつ建立されたものかは不明。
御楼門側から見て右から2番目の柱は,損傷が著しかったため,黎明館開館当時に新造。
東7 排水溝跡 石垣に沿うように排水溝が設置されており,通水の機能がある裏込石が充填され,水漏れを防ぐ漆喰塗りが見られる。実際の遺構は埋め戻し,その上にレプリカを設置している。
東8 御兵具所(おひょうぐしょ)跡 武器類を保管していたと考えられる場所。
現在は建物の基礎と思われる石等を露出展示している。
東9 天璋院像(てんしょういんぞう) 文化勲章受章者中村晋也氏制作の天璋院(篤姫)像。
平成22(2010)年12月19日建立。ちなみに,12月19日は天璋院の誕生日である。
東10 新橋橋柱(しんばしきょうちゅう) 鹿児島(鶴丸)城の北側にあった吉野橋濠に架けられていた新橋の橋柱。
吉野橋濠は現在のかごしま県民交流センターと鹿児島市立長田中学校との間の道路部分にあった濠。
東11 聚珍寶庫碑(しゅうちんほうこひ) 島津重豪(しまづしげひで)が,文政10(1827)年に江戸高輪の藩邸内に建てた「聚珍寶庫」(珍しいものを集めた宝物庫)の由来等を記した碑。
平成12(2000)年,東京都大田区南雪谷の旧島津邸から移設された。
東12 御野立所(おんのだてじょ)跡の碑 昭和10(1935)年11月17日,昭和天皇が鹿児島行幸の際に第七高等学校造士館を視察され,ホッケー競技を御覧になった。この視察を記念して,昭和13(1938)年に建立。
東13 鹿児島大学医学部跡記念碑 平成27年7月,鹿児島大学医学部創立70周年・西洋医学開講150周年を記念して建立。
東14 麒麟の間(きりんのまあと)跡と能舞台跡 鹿児島(鶴丸)城の発掘調査で能舞台に連なる橋掛り(はしがかり)と呼ばれる施設の一部が見つかった。これらは絵図等に記されていた位置と合致しており,鹿児島城内に能舞台があったことが確認された。
現在,能舞台に隣接していた麒麟の間の基礎があった場所にツツジを植栽し,建物のおおよその位置を示している。
東15 御角櫓跡(おすみやぐらあと) 御角櫓は鹿児島(鶴丸)城本丸居所の内濠に面した南端に位置する櫓。
高さ20メートル、幅は約7.5メートルの建物だったと推測される。
13代将軍徳川家定の御台所となる篤姫(のちの天璋院)と典姫(斉彬の娘)が,嘉永6(1853)年6月15日に,御角櫓から祇園祭を見たとの記録が残っている。
東16 明治天皇行幸記念碑 明治5(1872)年6月22日,明治天皇の鹿児島行幸を記念して,明治45(1912)年6月に建立。碑銘「行幸記念碑」は,松方正義の揮毫である。
東17 七高生久遠の像 第七高等学校造士館開校85年を記念して,昭和60(1985)年10月に七高同窓会により建立。「知・情・意」を象徴する七高生の姿をあらわしている。
七高造士館跡の碑
昭和34(1959)年10月建立。
寮歌・記念祭歌歌碑
平成2(1990)年10月に建立。北側の碑には「楠の葉末」,南側の碑には「北辰斜めに」が刻まれている。
東18 七高ゆかりの植物

楷の木(かいのき)
中国山東省曲阜にある孔子廟の楷の木の種子から育てられたものだったが,戦災で枯死した。現在の楷の木は,昭和58(1983)年12月7日に七高同窓会から寄贈・植樹されたもの。

竜舌蘭(りゅうぜつらん)
七高時代,敷地内に大きな竜舌蘭があり,学生たちに愛されていた。現在の竜舌蘭は,元々七高にあった株が卒業生の間で引き継がれており,その株を楷の木と同じ日に植樹したもの。

東19 水神その他の石碑等 水神の石碑,頭部のない坐像,地神の石祠などがまとめて安置されている。
いつごろから今の場所に置かれたのかはわからない。
東20 従三位島津重豪公頌徳碑(じゅさんみしまづしげひでこうしょうとくひ) 藩校造士館を創設した島津重豪の徳を称えて,昭和17(1942)年11月に建立。
西1 樋の間二つ家(てのまふたつえ) 姶良郡横川町下ノ赤水(現霧島市横川町)の海老ヶ迫(えびがさこ)家住宅を移築したもの。建築の時期は,天保年間(1830~1844年)と伝えられている。
二つの棟が,「樋の間」で連結されている民家は,川内川流域から旧姶良郡一帯に見られた。
西2 4月下旬頃,芳香ある淡い紫色の花を咲かせる。
材は下駄や家具に,樹皮は染料に,葉は防虫に利用される。
西3 田の神像

田を守り,稲作の豊穣をもたらす神として,鹿児島県内と宮崎県南部に多くみられる石像。
鹿児島弁では「田の神様(タノカンサァ)」
この像は川薩(せんさつ)地方にみられる神像型田の神の典型的なもの。
開館当時は現在の場所よりも山側に展示されていた。平成5(1993)年7月7日・8月6日の集中豪雨による城山の崖崩れと大量の土砂流入で屋外展示の一部は埋もれたが,この像はキンチクダケの藪に覆い被され,難を逃れた。
その後,現在の場所に移したことで,同年9月3日の台風13号襲来による倒木被害からもまぬがれた。

西4 石敢當(せっかんとう) T字路の突き当たり建てる魔除けの石。
中国から南島を経て伝播した習俗といわれ,南島や南九州に多く見られる。
西5 楠芳亭(なんぽうてい) 四畳半の茶室と十畳の広間を備えた茶室。
事前予約をすれば一般の方々でも利用可能。※詳しくは(電話099-222-5100)まで
西6 田の神石像(模刻) 姶良町平松(現姶良市),吾平町上名中福良(現鹿屋市),加治木町日木山里(現姶良市),郡山町茄子田(現鹿児島市)の田の神を模刻したもの。
西7 御池(おいけ) 鹿児島(鶴丸)城本丸にあった池を復元したもの。
石橋などの石材は,もと鹿児島城本丸の東南隅にあったものが,第七高等学校造士館時代に同校のプール建設のため,鹿児島市鴨池動物園の庭園に移設され,その後,動物園の移転に伴い,鹿児島市から無償譲渡されたものである。

 

 

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歴史・美術センター黎明館総務課

歴史・美術センター黎明館学芸課

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