ホーム > 地域振興局・支庁 > 鹿児島地域振興局 > 地域の宝箱!~地域フォトライブラリ~ > 歴史の宝箱 > 喜入町の「旧麓地区」を紹介します
更新日:2019年11月8日
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【日本遺産へ認定されました】
令和元年5月20日(月曜日)に『薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~』の構成文化財として,日本遺産へ認定されました。
日本遺産への認定については『薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~』(外部サイトへリンク)をご参照ください。
鹿児島市の南に位置する喜入町。喜入旧麓(きいれもとふもと)地区は,地区を南北に通る市道宮坂一倉線を中心に,中世の山城であった給黎城跡と八幡川の間に位置しています。
平安時代の終わり頃の1180年代に,伊作有道がこの地区に居を構え,姓を給黎(きいれ)と名乗ったと伝えられています。
室町時代の応永18年(1411年)伊集院頼久の所領となったものの,同21年(1414年)島津久豊が肥後球磨の相良氏の援軍を得て頼久を攻め,戦勝しこれを祝して「給黎」を「喜入」に改めたとされています。その後,蒲生氏,喜入氏,肝付氏が領主となり,承応2年に肝付兼屋が居館を琵琶山麓に移すまでの,400年以上もの間,政治の中心的な役割を果たしてきた地区であると考えられています。
”旧麓(もとふもと)”という名称は,肝付氏の居館の移転に際し,”新たな麓”が設けられたことから,旧来の麓を”旧麓”と称するようになったものとみられています。
地区内には,湧水を利用した水路が道路沿いにあり,武家門や生垣,石塀が連なっており,当時のおもかげが今も残っています。また,肝付家歴代墓や香梅ヶ渕,南方神社など自然や歴史を感じることのできるスポットがあります。
また,2006年から有志を中心として,様々なアイデアを基に干支のオブジェ作りに取り組まれています。オブジェは旧麓研修センターに毎年飾られており,訪れた人が誰でも見ることができます。
2019年の干支のオブジェは「亥(イノシシ)」で,高さ2.6メートル,長さ3.7メートルあり,海岸で拾った流木を牙に,体毛と尻尾には山で集めた杉やカンネンカズラが使われています。
これらのように,自然や伝統的文化が一体となったまちなみを後世に伝える景観づくりを進めるため,平成30年3月1日,喜入旧麓地区は鹿児島市の景観形成重点地区に指定されました。これを受け,地区内には,県の地域振興推進事業を活用し,景観資源案内板が設置されました。
また,グリーンファーム(鹿児島市観光農業公園)窓口では,旧麓地区の見どころがまとめられた「喜入旧麓れきしフットパスマップ」が配布されています。グリーンファームホームページからもダウンロードができます。ぜひ,御活用ください。
グリーンファームホームページへのリンク(外部サイトへリンク)
旧麓研修センター
今年の干支のオブジェ
景観資源案内板(ふれあい広場内)
牧瀬家武家門
石塀と水路
湧水を利用した水路
肝付家は文禄4(1595)年以降,270年余りにわたり,喜入を治めてきた一族です。
墓地は,近世初頭から明治維新まで山の斜面を利用し五段で形成されており,薩摩藩の上流武士の墓地としては,かなり大規模なものです。肝付家12代のうち,2代から12代までの領主をはじめ,一族の墓があります。明治維新に際して,薩摩藩家老として活躍した小松帯刀の父(11代兼善),母,兄弟の墓もあります。
墓石の形態が当初の宝篋印塔(ほうきょういんとう)から,それに祠堂を設け,さらに五輪塔へ,また近代には神式へと時期によって変化しており,その様子が伺えます。島津家の家紋入りの墓石や彩色鮮やかな蓮の花などの装飾が施された墓石など,それぞれに個性が見られます。
また,肝付家の菩提寺であった玉繁寺代々の住職の墓もあります。明治2年,廃仏毀釈により玉繁寺は廃寺となりました。墓地内には首のない仏像があり,当時のおもかげを感じることができます。
墓地入口
墓地に続く石階段
玉繁寺歴代住職の墓石
墓地の様子1
墓地の様子2
首のない仏像
11代兼善の墓(小松帯刀父)
装飾が施された墓石
香梅ヶ渕入口
香梅ヶ渕1
香梅ヶ渕2
エメラルドグリーンの水面
八幡川上流
八幡川へと流れる清流
南方神社参道入口
駐車場と南方神社(写真右)
本殿
夫婦石(写真左下)と御神木(写真中央)
今回,紹介した記事は,「喜入旧麓れきしフットパスマップ」及び鹿児島市の「喜入旧麓地区景観計画」等を参考(引用)としています。喜入旧麓地区景観計画等については,以下のリンクを御覧ください。
鹿児島市景観計画・景観条例・景観形成重点地区(外部サイトへリンク)
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