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更新日:2023年7月8日

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南北朝の動乱と南九州の武士たち

詳しい展示の構成

プロローグ モンゴル襲来と南九州の武士たち

鎌倉幕府の成立後,南九州の地に諸職を得た関東御家人には,島津氏をはじめ,千葉氏・鮫島氏,後には渋谷氏・二階堂氏・北条(名越)氏などがあったが,各一族の勢力伸長は,幕府内の政争や承久の乱によって大きな影響を受けた。また,これら関東御家人は,蒙古襲来を契機に本格的に南九州の地に入部したが,谷山氏・肝付氏をはじめとする在地勢力と争いながら勢力を広げていった。ここでは,南九州の武士たちがモンゴル襲来という国難に対して,どのように立ち向かったのかを紹介する。

印
管軍総把印(レプリカ)鎌倉時代(13世紀)鷹島海底遺跡出土資料(松浦市教育委員会蔵)
て
てつはう鎌倉時代(13世紀)鷹島海底遺跡出土資料(松浦市教育委員会蔵)

蒙古
蒙古襲来絵詞(大矢野家本)江戸時代後期 (19世紀)(個人蔵,熊本県立美術館保管)

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第1章後醍醐天皇による建武政権樹立

第1節 後醍醐天皇の倒幕計画と鎌倉幕府滅亡
第2節 建武の新政

後醍醐天皇は,自らの皇子を皇位につけるため,討幕計画を進めるが,失敗に終わった。しかし,一方で,反幕勢力の結集が図られ,足利高氏(のち尊氏)が幕府に反旗を翻したことで,各地の有力御家人もつぎつぎと討幕軍に参加し,幕府の拠点や北条氏一族の所領を攻撃したが,これらの軍勢の中には,薩摩国守護・島津氏や,入来院氏一族のものもいた。そして,新田義貞が鎌倉を攻め落とし,元弘3(1333)年,ついに約150年続いた鎌倉幕府は滅亡し,後醍醐天皇による建武の新政が開始される。この章では,鎌倉幕府滅亡までの過程と,建武の新政の様子について紹介する。

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【重要文化財】足利尊氏坐像南北朝時代(安国寺蔵)

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後醍醐天皇綸旨元弘3年11月9日付(岡元文書(黎明館蔵))

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第2章南北朝の動乱の幕開け

第1節 足利尊氏の離反
第2節 多々良浜の戦い・湊川の戦い
第3節 南北朝時代の幕開け

建武2(1335)年,信濃で挙兵した北条時行による反乱(中先代の乱)鎮圧のため,鎌倉に下向した足利尊氏は,乱鎮圧後も鎌倉に留まり,建武政権からの離脱を決断する。後醍醐天皇が派遣した追討軍を迎え撃ち,京都へ攻めのぼった尊氏は,一度は敗れて九州に落ち延びるが,少弐・大友・島津氏ら九州の有力豪族を味方につけ,再び京都を奪還し,持明院統の光明天皇を擁立した(北朝)。ここに,吉野に逃れた大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)と,二つの朝廷が並び争う,南北朝の動乱が始まり,南九州の地を含め,日本各地で両陣営の戦いが繰り広げられた。また,遠くは越前国金ケ崎の戦いに動員された南九州の武士もいた。この章では,尊氏の離反から南北朝の動乱の幕開けについて紹介する。

た
【埼玉県指定文化財】太平記絵巻 巻第六 多々良浜合戦事(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

み
湊川合戦図屏風(右隻)江戸時代(17世紀)(個人蔵,和歌山県立博物館保管)

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第3章征西将軍宮・懐良親王と足利直冬の九州下向

第1節 征西将軍宮・懐良親王の九州下向
第2節 足利直冬の九州下向

南朝の後醍醐天皇は,各地に皇子を派遣し,戦線を整えようとした。九州には懐良親王が下向し,鹿児島の地に上陸し,谷山氏らに迎え入れられ,一大勢力を築いた。一方,幕府側においては,将軍・足利尊氏の弟・直義と執事・高師直の対立,さらには尊氏と直義との対立が生じていた(観応の擾乱)。その影響から,尊氏の庶子で直義の猶子となっていた直冬が中国から九州に逃れ,鎮西管領・一色氏と対立していた少弐氏らに迎え入れられる。結果,九州は三陣営勢力が対峙する複雑な情勢となった。この章では,南九州の武士たちが,各陣営といかに向き合いながら戦いに参加したのかを紹介する。

騎馬武者像
【重要文化財】騎馬武者像南北朝時代(14世紀)(京都国立博物館蔵)

鎧
【重要文化財】紺糸威鎧 兜・大袖付
南北朝時代(14世紀)(鹿児島神宮蔵,黎明館保管)

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第4章九州探題・今川了俊の九州下向

第1節 九州探題・今川了俊と島津氏の対立
第2節 今川了俊と南九州の武士たち
第3節 今川了俊の九州探題解任

南朝勢力が優勢であった九州情勢を打開しようと,幕府は今川了俊(貞世)を九州探題に任じた。了俊は九州に下向すると,まもなく征西将軍府が置かれていた大宰府の攻略に成功する。当初,総州・奥州両島津氏は了俊に協力姿勢を見せていたが,肥後水島の変をきっかけに離反し,両者は激しく対立する。一方,明徳3(1392)年,三代将軍・足利義満は,南北朝の合一を実現する。すると,肥後の菊池氏,阿蘇氏も武家方に帰順し,九州における抵抗勢力は島津氏だけとなったが,その3年後,了俊は突如京都に召喚され,九州探題を解任された。この章では,九州探題・今川了俊と島津氏との対立を中心に,南九州の武士たちの動向を紹介する。

島津道鑑譲り場
【国宝】島津道鑑(貞久)譲状案(師久分)貞治2年4月10日付
島津家文書(東京大学史料編纂所蔵)

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今川了俊書状(右)(年未詳)3月10日付(中)永和2年5月25日付(左)永和元年9月13日付
入来院家文書(東京大学史料編纂所蔵)

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エピローグ 室町幕府と南九州の武士たち

南北朝の動乱後も,南九州においては総州家と奥州家に分裂した島津氏が家督継承を巡って対立を強め,また各陣営に有力国人が与したことで激しい抗争が続いた。この争いは奥州家の勝利で決着するも,その後も守護島津氏と国人との大規模な闘争が続いた。ここでは,島津氏一族間の争いに加え,有力国人らによる国人一揆の動向について,戦国争乱前夜として紹介する。

島津久豊像
島津久豊像室町時代(尚古集成館蔵)

国宗
【国宝】太刀:銘 
国宗(照國神社蔵 黎明館保管)

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歴史・美術センター黎明館学芸課

電話番号:099-222-5396

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